チュラロンコン大学は国王の勅許を受け19世紀末にバンコックで創設された、タイでもっとも由緒ある大学である。環太平洋地域の大学代表をここに集め、3月上旬国際会議が開かれた。最終日の午前中はホテルの会議室で各大学がそれぞれ近況について報告。ニュージーランドのオークランド大学副学長は、クライストチャーチで最近発生した大地震の経験を語り、各国からの支援に謝意を表した。正午過ぎ、すべてのプログラムが終わる。私はいったん部屋へ戻り荷物をまとめてチェックアウトしたあと、会議参加者と昼食を共にし、別れを告げた。
タイを訪れるのは初めてである。室内での会議が続いたので、まだ一歩も外に出ていない。深夜の東京便出発までたっぷり時間がある。街を一人で歩くことにした。ホテルで地図をもらい、銀行で両替をし、高架鉄道に乗って川沿いの駅で降りる。目の前にチャオプラヤー川の水面が広がる。
バンコック中心部を流れるこの川は、あらゆる種類の船が頻繁に行き来している。荷物を満載したはしけ、小型のタンカー、海軍の舟艇、観光用ボート、そして地元の人が通勤に利用する「チャオプラヤー・エクスプレス」という名の乗合ボート。前日チュラロンコン大学の人から、乗合ボートはとても安い、どこででも飛び乗って、好きなだけ乗れると聞いていた。断然乗ろう。そう決めて窓口で一日乗り放題のパスを買い、桟橋に立つ。ほどなく川下から隅田川の水上バスを少し細くしたようなボートが近づいてきた。若い船員が船べりを行き来しながら、笛を吹き合図する。ボートは右舷を桟橋に寄せ、排気口から燃料油くさい煙をはき出しながら後進をかける。船員が手早くもやいをボラードにかけ船体を固定する。乗客が降り、新たに我々が乗ると、ボートはすぐに桟橋を離れ、川の真ん中に出た。
まだ3月だというのに、気温が30度ある。街を歩いてすっかり汗をかいたのに、スピードを上げる乗合ボートの船上は、川風が涼しい。川沿いのすてきなホテルやショッピングセンター。ピンクや赤や青のカラフルな建物。こじんまりした王立海軍司令部。公園。ところどころに懸かる国王の大きな肖像画。風変わりな屋根の寺。街中緑が濃く、花が溢れている。
こうしてこの午後いっぱい、乗合ボートを5回ほど乗り継ぎ、ワット・ポーとワット・アルンという川沿いの寺を2つ訪れ、川を遡り、川を渡り、川を下った。ワット・アルンでは塔の上から川を眺めた。さまざまな人がボートに乗って、おしゃべりをし、笑いあい、あちこちの波止場で降りていった。言葉を交わしたタイの人たちはみな親切で、道を教えてもらった礼を言うと、胸のまえで合掌し、「カックゥン・カッ」(ありがとう)と言って微笑み返す。寺の入り口で犬は腹を出して寝ころび熟睡していたし、仏像は穏やかな表情で鎮座し、あるいは寝そべっていた。ワット・ポーの大きな仏様の前で座禅のまねごとをし、しばし目をつぶる。地元の人たちが銘々祈りを捧げる広い仏間を、やわらかな風が吹き抜ける。
ずいぶん川上まで行って、そこから引き返し、橋をいくつかくぐって、ようやく出発した桟橋に戻る。高架鉄道にまた乗り、夕方の雑踏をかきわけてホテルへ向かった。街かどで会議参加者の一人と偶然すれ違い、「日本の地震大変だね」と言われる。「地震?また地震があったのか」と、ぼんやり考える。エレベーターでロビー階に上がり扉が開いたら、目の前で、ネクタイをしめ背広を着たまま、東北大学の人たちが携帯電話に向かってしきりに話している。彼らはどこにも遊びに行かなかったのかなと一瞬思い、すぐに「あっ、これは地震のせいだ」と気づいた。彼らから東北地方が大変な状態にあることを知らされる。みな不安な表情をしている。連絡が取れないという。テレビの画面で巨大津波の映像が流されている。容易ならざる事態であることを、このとき初めて認識した。
大地震が発生したのは、数時間前、昼食を取っていたさなかである。その後津波が押し寄せ何千という人々が命を失い、何万人もが家を失いつつあった時、私は何も知らず、のんびり乗合ボートを乗り継ぎ、ゆったりした気持ちで寺めぐりをしていた。横浜の自宅に電話すると、家内は無事だったが、大変な揺れでこわい思いをしたと告げられる。「あなたは肝心なときにいないのよねえ。」その日深夜、予定通りバンコックを離陸した飛行機で、翌朝羽田に戻る。空港で一夜を明かした人々が、まだ何人か到着ロビーで横になっていた。
それから約1ヶ月、大地震の瞬間は日本にいなかったものの、余震を心配し、放射能を案じ、被災者を思い、停電におびえ、照明を消した暗い街を歩いたのは、周囲の同僚や知人、友人と変わらない。学校ではしばらく対応に追われる。学生諸君の安否を確認し、卒業式を中止し、入学式は延期した。授業計画を練り直し、留学生の世話をし、海外からの問い合わせに返事をした。被災地から遠い慶應でも、影響は大きい。
それから半月が経ち、3月最後の水曜日SFCを訪れる。地震が起きてから3回目である。執行部の会議に出たあとキャンパスに残り、多くの人と話をした。地震直後建物の一部が壊れ、メディアセンターの本が何万冊も床に落ち、停電が続いて大変だったSFCも、少し落ち着きを取り戻している。数日前まで寒い日が続いたのに、この日は温かくて、柔らかな初春の日差しが降り注いでいた。
少し時間が空いたので自分の研究室の様子を確かめようと思い、人気のないキャンパスをカッパ棟へ向けて歩く。抜けわたる青空のもと、鳥が鳴いて、木々の芽がふくらんでいる。メディアセンターの前を通り抜けながら前方を見ると、福澤先生の胸像の前で男女二人の学生が互いに向き合い、気をつけの姿勢で立っている。何をしているのだろう。近づいてわかった。男子学生が女子学生に、これから学位記を授与するところだったのである。
「学位記
SFC子
慶應義塾大学 学則に定めた総合政策学部の課程を修め
本大学を卒業したことを証し学士(総合政策学)の学位を授与する
平成二十三年三月十日
慶應義塾大学長 清家 篤
慶應義塾大学総合政策学部長 國領 二郎」
学位記の文言を読み上げると、彼は学位記を前に差し出し、彼女は「ありがとう」と言ってうやうやしく受け取った。参列者は私だけ。拍手をして、「おめでとう、卒業式が中止になって残念だったね」と声をかけたら、「でもインターネット配信は、とてもよかったです」。二人は笑顔でそう答えた。
人は一生のうちに実に多くを失う。若い日は二度と帰ってこないし、親しい人もいつか去っていく。今度の大震災のように、同じ日、同じ時に、とてつもなく多くを失うことさえ、稀にある。さっきまで元気で笑っていた家族が一瞬のうちにもういない。大切な家がない。被災した何十万もの人々はどんなにかつらいだろう。被災地から遠い私たちもまた、今回の震災で何かを確実に失った。
けれども人はまた多くを共有する。大切なものを失う経験さえ分かち合う。分かち合える。今回の大震災ほど、すべての日本人が悲しみと痛みを共有したことは、これまでなかっただろう。いや日本人だけではない。タイの人、アメリカの人、世界中の人々が、分かち合ってくれた。卒業直前に大地震が起こり、卒業式がなかったこの春の卒業生にとっても、これからの長い人生を通して、そのこと自体が共通の大切な思い出、絆となるに違いない。そしてその共通のつらい思い出から、希望が、元気が、わいてくるだろう。新約聖書の「ローマ人への手紙」のなかに、「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生み、練達は希望を生じる」という言葉がある。
福澤先生の胸像の前で、ささやかな学位記授与式を執り行う若い二人に偶然出会い、地震のとき日本にいなかった私も、彼らの思い出をほんの少し共有させてもらった。そして今はもう、はるか昔のように感じられるあの日の午後、地震を知らないまま船で上り下りしたバンコックの川を、ワット・ポーで見たさまざまな仏様の穏やかなお顔を、なつかしく思い出した。それ以来、私の心の中で、今回の大災害、バンコックの川と寺、そしてSFCの春が、なぜか不思議に結びついている。
(掲載日:2011/04/21)