職業柄、卒業式や結婚式で色紙に祝いの言葉を求められることが多い。書くのはいつも同じであり、「我々は遠くから来た。そして遠くまで行くんだ!」というイタリアの哲学者トリアッチの言葉である。教師と学生、新郎と新婦の出会いと将来を励ます意味で、何にでも使える便利な言葉である。
高校を卒業して30年後、49歳の時の同窓会での話である。初めて恩師が出席することもあって同級生ほぼ全員が出席し、30年ぶりの再会である。恩師の挨拶は、「君たちには済まなかった。まだ人生を分らない30代の若造が生意気にもバカだ、アホだと君たちを罵ったことを許してほしい。しかし、こうやって立派に成長した君たちを見ていると安心し、うれしい限りだ」とお詫びから始まったのである。
恩師は進学クラスの担任、かつ英語の教師としてその指導はきびしく、英文を訳せないものなら、「こんなのも訳せないのか。窓から飛び降りて死んじまえ」など罵詈雑言あふれる授業であった。そのため恩師を嫌う生徒も多かったが、なぜか私は英語を好きになったのもこの教師のおかげと思い、嫌いではなかった。
むしろ、あのきびしい恩師の挨拶がお詫びから始まったことに驚き、英語担当の怖い教師と恐れていた恩師もあの頃は30代であったのかと改めて気づいたのである。そして、最後に恩師は、「まだ俺にも恩師が生きている。恩師が三途の川を渡る前に、生徒である君たちは渡ってはならない。これからもしっかり生きてほしい」と締めくくった。
人生の中間点をとうに過ぎた49歳の我々に対して、なお励まし続ける恩師の挨拶に感動するとともに、罵詈雑言の中にこうした励ましを感じ取ったがゆえに英語が好きになり、恩師を好きになった理由を再発見したのである。
「劣等生のこの僕に、素敵な話をしてくれた」と唄う『ぼくの好きな先生』の忌野清志郎は58歳で亡くなったが、モデルとなった77歳の恩師は通夜に参列し、「十分がんばってきたんだ。ゆっくり休め」と花を手向けたという。この歌が入った清志郎の初アルバムは高校卒業後2年後であり、初アルバムを携えて訪れた清志郎に、恩師は「照れくさかったけれど、やっぱりうれしかった」と述懐している。
さて、私の場合、「ぼくの好きな先生」のようなアルバムを作ってくれる教え子が生まれるかどうか、家を出て行った者は振り返る暇は少ないけれど、家に残された者はいつも出て行った者のことを考え続けているものだ。たとえ遠くまで行ったとしても、おかしらのこの想いだけは改めて強調しておこう。
(掲載日:2011/09/22)