「ふるさとの訛なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく」は岩手出身の石川啄木の歌だが、辞職したとはいえ、松本復興担当大臣の「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とかわからんのだ」「九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かったりして、結果として被災者を傷つけたとすれば申し訳ないと思います」の発言には、啄木でなくても驚いた人は多いはずだ。
仙台に4年、博多に4年住んだ者からすると、松本大臣の発言も理解できないわけではない。3月上旬に九州・宮崎に用があって訪問した時のことである。仙台空港を飛び立つときはみぞれ交じりの悪天候なのに、大阪・伊丹空港経由で宮崎に降りると、青々とした緑と燦々と輝く太陽があり、なぜか腹が立ったのを覚えている。夜の席で地元の人にその話の続きをして、東北地方では江戸時代に3年に1回、小さな飢饉があり、何十年に1回の大飢饉のときには多くの餓死者を出して来たこと話したら、「宮崎では古文書を見ても餓死者の記録はない。何かしら食べ物は採れたのだろう」と返されて、同じ日本でこんなにも違うことに気づいたのである。
東京や東北の人からみると、九州は何といっても阿蘇山であり、それに次ぐのは大河ドラマの影響もあってか、鹿児島・薩摩がイメージされるという。けっして、松本大臣の地元・博多ではない。しかも、博多に住んでいた者からすると、九州の言葉は本当に語気が荒いとは思えない。『万葉集』時代の古い言葉が残っていたりして、ぼそぼそ話す東北の言葉が強く感じる時があるから不思議だ。松本大臣の選挙区は福岡1区の東区、博多区からなり、市役所のある福岡2区とともに商業・博多を代表する地域で、私のいた九州大学医学部もこの中にあり、松本大臣の事務所の大きな看板を思い出す。
今回の辞任劇について同じ博多の市民の間でも、「あれは九州人の言葉ではない。福岡1区の言葉だ。次の選挙で当選させたら、そうした政治家を求める選挙民も問題だ」と大ブーイングだという。確かに言葉は、家族や地域の中で覚えていくもので、その人が使う言葉にはその人を育てた家族や地域の歴史が忍び込んでいる。同じ東北の被災地でも山ひとつ越しただけで、言葉や地域の絆が異なることに遠くからのボランティアは驚いたという。
お国訛りといっても、その背景には親の所得や教育水準など家族の違い、都会か田舎か、漁村か農村か、都心か郊外か、工業地か商業地か住宅地かなど地域の違いなどが作用しており、最後はその言葉を使う本人の社会意識で決まってくる。せっかく小選挙区制になったのであるから、今回の辞任劇を契機に政治家の使う言葉と知性とを選挙民の代理変数として吟味することを提案したい。そうすればもっと良い政治が実現できるにちがいない。
(掲載日:2011/07/12)