3.11の東日本大震災と福島原発事故という未曾有の大惨事を契機に、日本はもちろん、世界の社会のあり方は大きく変わろうとしている。すなわち、自然の大いなる力の下で人間が虫けらのような存在であること、原子力という制御不能なものを手に入れたことの恍惚と不安を味わい、21世紀の社会と個人が取り組むべき課題が明らかとなった。特にこうした大惨事の下で、社会と個人が持つ倫理観、品格・人格、連帯の質がより鮮明になった。
政府・東電・保安院の産官学の複合体による原発事故の記者会見を見ていれば、それは太平洋戦争当時の「大本営発表」とまったく同じであり、「敗戦」を「終戦」に、「敗退」を「転進」と言い換えて、超合理主義的な「希望」にすがっていた日本社会の習性が変わっていないことに驚き、嘆かざるをえない。「論理に忠実な者は論理の復讐を受ける」という言葉があるが、研究者のはしくれとして、「想定外の事故」と薄っぺらな言葉でコメントしていた研究者を許すことはできない。論理の展開のどこに問題があり、どの部分の考察が不足していたのか、研究者であればその考察抜きにテレビで発言などできないはずだ。結論が得られないのなら、じっと沈黙する姿を見せるしかないだろう。
そして、今回明らかになったもう一つの出来事は、政治家と霞が関のエリート達の無責任さ、リーダーシップのなさである。被災地からの問い合わせに対して、前例主義と上司の許可を建前に何ら方針を示せない中央官庁の実態。そして、不安を抱えた被災者に支援のための旗=方針を示せないばかりか、検討のための会議と時間を浪費して、ひとり悦に入っている「おかしら」の存在は、状況を共有する世界に大いなる不思議と映ったのである。
わが国は明治維新・開国、戦後の高度経済成長という2回の奇跡を実現して、世界を驚かせて来た。しかし、今回の大震災後に「三度目の奇跡」を成し遂げられるか、人口減少・高齢化・低成長という社会環境を考えると、これまでと比べようもないほど厳しい。新学期は3.11によって新しい社会が始まったこと、もう震災前の昔には戻れないこと、研究者・科学者と共に「おかしら」も信用できないことからスタートするしかない。新しい社会の建設に貢献する研究者、そして「おかしら」は誰か、それを見抜く力こそ、江戸から明治の開国を生きた福沢諭吉の「実学の精神」の習得であると強調したい。
(掲載日:2011/04/20)