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2011.12.22

パリの空の下|阿川尚之(SFC担当常任理事)

 10年ぶりで、パリを訪れた。成田を出発して12時間と少し経ったころ、日本航空405便パリ行きは、次第に高度を下げて着陸態勢に入る。眼下にイルドフランスの豊かな大地が、ゆるやかな起伏を見せて広がり、ところどころに集落が散らばる。フランス人は、この土地で中世以来、耕作を続けてきたに違いない。村々のたたずまいは、その頃からあまり変わっていないように見える。

 フラップを一杯に広げて傾けたボーイング777は、さらに高度を下げる。乗務員が全員席につき、道路を走る自動車が機体に触れるほど近くなったころ、シャルル・ドゴール国際空港の誘導灯が視界に飛び込み、空港敷地内へさしかかって数秒後、後輪が滑走路をなでるようにしてタッチダウン、着陸した。

 頻繁に海外へ出張するのに、フランスを訪れる機会はほとんどない。もっぱらアメリカ、アジア諸国、そしてイギリス。先回パリへ足を運んだのは、10年前イスラエルでの講演旅行へ赴く途中であった。午後到着して空港内のホテルで1泊、翌朝早い飛行機でテルアビブに向かう予定で、単なる乗り継ぎである。しかしまだ明るかったので、市内まで地下鉄に乗ってでかけた。

 混んだ車内で隣の男性に、「ノートルダム大聖堂に行くにはどこで降りればいいのですか」と、たどたどしいフランス語で尋ねたら、うなずいて降りる駅を教えてくれた。サン・ミッシェルか、サン・ミッシェル・ノートルダムの駅だったと思う。下車して階段を上がり、外へ出た瞬間、いきなりノートルダムの御堂が目に飛び込んだ。晴れた冬の夕暮れ、セーヌ川の真ん中シテ島を覆う薄墨色の空の下に、荘厳な大聖堂が聳えていた。

 この時をふくめ、パリは5回訪れただけである。他は観光で2回、出張で2回。それぞれ数日の滞在であったから、この街についてはほとんど何も知らない。知り合いもいない。言葉もわからない。それでも訪れるたびに美しい街だなあと思う。

初めてパリを訪れたのは、今から約30年前である。アメリカのロースクール第1学年が終わった夏休み、ユーレイルパスを購入して家内と2人ヨーロッパ旅行にでかけ、ワシントンから飛行機で飛んでドゴール空港に降り立った。鞄をかかえ空港から地下鉄でリヨン駅をめざす。その夜、列車でローマへ出発する予定だった。しかし初めての大都会パリ、初めて乗った地下鉄、どこでどう乗り替えるのかがわからない。周りの人に「ウ・エ・ラ・ギャール・ド・リヨン」と尋ねても、早口の返事は聴きとれない。

困ったなあと立ちつくしていたら、傍にいた婦人が英語で「どこに行きたいのですか?」と助け舟を出してくれた。これこれの事情でリヨン駅にまず行って、トランクをロッカーに入れ、夜までパリの街を歩きたいのだがと告げる。そうしたらこの御婦人、わざわざ我々と一緒にリヨン駅まで行き、コインロッカーを見つけて使い方を示し、イタリアへ向かう列車が発車するフランス国鉄のホームまで案内してくれた。そのうえ名刺に自宅の電話番号を書いて渡して、「帰路パリに立ち寄るなら電話しなさい。よかったらうちに遊びにいらっしゃい」。

聞けば何とこの御婦人、裁判官の奥さんで、ご主人と2人ハーバード・ロースクールへの留学から帰ったばかりとのこと。アメリカのことがなつかしい、アメリカの人たちは親切だったと、アメリカからやってきた(実は日本人の)私たちに親切だったのである。パリの人は英語をわざとしゃべらない。パリの人は不親切だ。アメリカの友人からそう聞いていたけれど、そんなことは少しもなかった。

その夜列車でローマに発ち、フィレンチェ、ベネチア、ラベンナ、アッシジ、サンジミニアーノ、ジェノア、アビニオン、エクサンプロバンス、アルル、マドリッド、トレド、リスボンと、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル各地をわずか2週間で回った。旅程など立てず、ホテルの予約も取らず、気ままに歩いた。

リスボンの民宿に2泊して、そこから夜行列車に乗って再びパリをめざす。途中車内で偶然一緒になった汽車好きのMITの学生にそそのかされ、ボルドーで2時間待ってTEEという特急列車に乗ったのが間違いのもと。パリのオーステルリッツ駅に到着した時にはもう午後11時を過ぎていた。駅の公衆電話から20軒ほどホテルへ電話を入れるが、まったく空き部屋がない。大きな国際会議が開かれていてどこも満員。駅員は仕方ないから待合室で寝ろという。家内はパニック状態である。

どうしよう。その時、私の頭に名案が浮かんだ。寝るためにまた列車に乗ればいい。調べるとリヨン行きの夜行がある。タクシーでリヨン駅へ向かい、この列車の狭いコンパートメントを気のいいイタリア人夫婦と分け合って、何とか横になる。リヨンには翌朝午前6時に到着。すぐに出発するリヨン発パリ行きのTGVに飛び乗って、午前9時には快晴のパリへもどった。アメリカの友人に勧められていたサンルイ島のホテルに電話をしたら、この日は空きがあり、タクシーですぐ向かう。部屋に入って荷物を降ろしたときには本当にほっとした。こんな冒険旅行をした30年前、私たち夫婦は若かった。今より30年も若かった。

今回のパリ出張はフランス政府の招待によるものである。カンピュス・フランスという機関が、パリの日本文化会館で「ジュルネ・ジャポン(日本の日)」という、日本人のフランス留学を促進するための講演会を行う。そこで基調講演をしてくれと頼まれた。飛行機代も宿泊費も負担してくれる。なつかしいフランスである。2週間前ロンドンへ出張したばかりだったが、スケジュールを調整して招待を受けた。そしてカンピュス・フランスの担当官に、30年前に泊まったサンルイ島のホテル予約をお願いする。それを快く引き受けてくれて、ドゴール空港に到着した私はタクシーでなつかしいそのホテルへ向かった。

サンルイ島は、ノートルダム大聖堂のあるシテ島の隣に位置する小さな川中島である。そもそもパリという街は、シテ島とサンルイ島がセーヌ川の中州に過ぎなかった中世のある時期、ここに渡し船があって、それを中心に発展したのだという。観光客でにぎわうシテ島と比べ、橋でつながるすぐ隣のサンルイ島は真ん中に200メートルもない狭い通りが1本走っているのみで、いつも静かである。パン屋、肉屋、果物屋、チーズの店、チョコレートの店、レストランやカフェやアイスクリーム・パーラーが並ぶこの通りに数軒小さなホテルがあり、その一つが私の宿である。

17世紀の建物を改造したというこの小さなホテルは、30年前の記憶とほとんど変わっていなかった。小さいけれど大きなソファーを斜めに1つ置いた落ち着いたロビー。入口の横に机があり、人が1人座っているのがレセプション。小さなエレベーターと少し傾いた狭い階段。奥に8人入ればいっぱいになる朝食用の小さな食堂。部屋は小さいけれど、窓から中庭が見える。天井には垂木が走る。

朝起きて階下の食堂に赴くと、ポットにたっぷり熱いコーヒー、温めたミルク、オレンジジュース、チョコレート・クロワッサン、クロワッサン、そしてミニバゲットを一つずつ、卵とヨーグルトとチーズにハムの朝食を出してくれる。コーヒーとミルクを半分ずつ混ぜて飲むカフェオレは、うまかった。そして三田の学生時代、フランス語の授業で教わった、ジャック・プレベールのDéjeuner du matin(朝の食事)という詩を思い出す。

Il a mis le café
Dans la tasse
Il a mis le lait
Dans la tasse de café

あの人はコーヒーをカップに注ぎ
そのコーヒーにミルクを注いだ

Il a mis le sucre
Dans le café au lait
Avec la petite cuiller
Il a tourné

カフェオレに砂糖を入れ
小さなスプーンで
かきまわした

Il a bu le café au lait
Et il a reposé la tasse
Sans me parler

あの人はカフェオレを飲むと
カップを置いた
私に何も言わないで

Il a allumé
Une cigarette
Il a fait des ronds
Avec la fumée
Il a mis les cendres
Dans le cendrier
Sans me parler
Sans me regarder

あの人は煙草を吸って
吐き出した煙で丸い輪をつくった
あの人は灰皿に灰を落とす
何も言わずに
私を見ずに

Il s'est levé
Il a mis
Son chapeau sur sa tête
Il a mis son manteau de pluie
Parce qu'il pleuvait
Et il est parti
Sous la pluie
Sans une parole
Sans me regarder

あの人は立ち上がった
頭に帽子を被り
レインコートを着た
雨が降っていたから
そして去った
雨のなかへ
一言も言わずに
私を見ずに

Et moi j'ai pris
Ma tête dans ma main
Et j'ai pleuré

そして私は
両手で顔を覆い
そうやって一人で泣いた

私の前には誰も座っていなかったし、別れ話もなかったけれど、それでもカフェオレはとてもうまかった。

もちろんパリにいる間、思い出にふけってばかりいたわけではない。慶應が親しくしているフランスの有力大学2校を訪れ、今後の交流について話し合った。ワシントン時代同僚だった日本大使館の人とシャンゼリゼ近くの小さなレストランで一緒に食事をした。行きの機内で、到着した日の夜と翌日の朝にはホテルの部屋で、講演のアウトラインを必死で書いた。そして本番のジュルネ・ジャポンでは、「日本の大学の国際化」というテーマのもと、30分ほど講演をした。

日本の若者は内向きになっているというけれど、そんなことは必ずしもない。特に東日本大震災のあと彼らは少し変わったような気がする。機会があれば世界を見たい、世界のなかで何ができるのか試したいと思っている。大学としては、彼らをぜひ外国に出したい。フランスにも出したい。短期でもいい、広い世界を見てきてほしい。世界中に友達を作ってきてほしい。そのために大学はできるだけのことをする。そんな話をした。

せっかくフランスに来て講演をするのである。一部はフランス語でやろう。そう思って日本を発つ前に、理工学部へ留学しているフランス人学生に文章を見てもらい、冒頭フランス語で話した。

J’ai etudié le français pendant trois ans lorsquej’étais étudiant à Keio au Japon et à L’Université Georgetown aux Etats Unis. J’ai travaillé dursur mon français, particulièrement à Georgetownparce que ma professeur était une demoiselle très jolie et très attirante.Mais, Je n’ai pas passé assez de temps en France pour garder et améliorer monniveau en français.

なんてことを言ったら、フランス人の聴衆が笑って拍手してくれた。通じたのかなあ。

正味わずか3日のフランス滞在であったけれど、いろいろな光景が記憶に焼きついた。サンルイ島のチーズ店に並んだ形も大きさも異なるさまざまなチーズ。講演の日の夜、カンピュス・フランスの人たちとディナーを共にした、バスティーユ広場近くアルザス料理店の華やかな佇まい。午後会議を抜け出して乗ったパリ地下鉄の古びた車両。訪れた大学近く道路わきの運河の大きな水門。ドゴール空港へ向かう高速道路の横に立つ変わった形の送電線の塔。そして大学で、講演会で、食堂や店で、ことばを交わした何人かの魅力的なフランスの人たち。

若き日にフランス語を少し勉強したものの、アメリカに留学しアメリカとの縁が深まったため、フランスで勉強する機会がなく、この国についてよく知ることがなかった。今こうしてパリにいても一異邦人であるに過ぎない。もしもっと本格的にフランスについて勉強していたら、もしフランスに留学していたら、まったく異なる教養と文化を身につけ、多くのフランス人の友人ができていただろうか。

短い滞在の最後の夜、ディナーからの帰りにサンルイ島へ渡る橋の上から見下ろすと、すっかり暗くなったパリの空の下、黒々とした川面に渦をまきながら、セーヌ川が流れていた。

(掲載日:2011/12/22)