暑熱の日々が永久に続くのではと、本気で疑いはじめたほど暑くて過ごしにくい今年の夏が、気がついてみればすでに遠い。涼しくなってもすぐ蒸し暑い日が戻る、その繰り返しが続いた秋の日々も、最近は朝夕肌寒く感じる。先日朝起きて居間のカーテンを開けたらば、空はいつになく青く澄みわたり、横浜の市街地の向こうに雪をいただいた富士山が屹立していた。山はもう冬だ。
8月末に大きな論文の締切りをかかえ、今年の夏休みは三田で仕事がない日も毎日働いてばかりいた。数日おきにプールで泳ぎ気分転換をはかる以外、どこへも出かけず、ひたすら資料を読み、文章を組み立て、四苦八苦する。遠くへでかけたのは、箱根で外部の研究会合宿に参加した2日間だけである。何とか初稿を完成し、やっと少々の余裕ができた9月初旬、家内と二人初めて旅に出た。名づけて「のぞみは西へ」。京都で泊まって人と会い、神戸で友人家族と食事をし、それから本来の目的地広島へ到着する。
広島は父の生まれ故郷である。戦後東京に住み着いてからも始終帰った。東京で育った私たち兄弟4人も、幼い頃からたびたび広島へ出かけた。小学生の時代、休みに入るやいなや、両親は私と妹を東京駅に連れて行き、特急列車「あさかぜ」の3等寝台車に乗せる。ベルが鳴り、両親が列車を降りホームに立つ。機関車が汽笛を鳴らし、特急が動き出す。有楽町、新橋を通過し、母が用意してくれた弁当を食べ、車窓から見える景色が闇に沈む頃、三段ベッドの一番下の寝台で眠りについた。翌朝早く、列車は八本松瀬野間の急勾配を、補機をつけて乗り越え、ゆっくりと平野へ向かって下り、速度を落として広島駅の一番線に滑り込む。ホームでは必ず伯父と伯母が待っていてくれた。
広島の夏、私たちは川や海で泳ぎを習い、地元の子供たちと遊び、たまには宿題をし、瀬戸内海でとれた新鮮な魚を食べ、自宅近くの山陽本線を走る特急や急行を飽かず眺めた。毎年繰り返すこの夏のしきたりは永遠に続くように思われたけれども、時は確実に流れ、伯母が私たちの背の高さを計り、鉛筆で線を引いて日付を入れた印が年ごとに高くなり、今でも納戸の柱に残っている。
伯父は父より19歳年上で、伯母が嫁入りしたときにはまだ子供だった。伯父夫婦には子供がいなかったので、私たち兄弟を孫のように可愛がった。両親がアメリカへ遊学したときは、当時4歳の私と2歳の妹を、1年間預かる。小学生時代広島での夏休みは、その続きであった。しかし伯父は私が中学生のとき、東京出張中に急病で亡くなる。祖父母が大正時代に住み着き、父が生まれ育ち、自分が嫁入りし、戦後満州から引き上げ、祖父母を見送り、われわれ兄妹を預かり、毎夏私たちが帰ってくるのを迎えた家を、伯母は一人で維持した。「お祖父さんが残されたこの家を、あんたたちが帰ってくるまでは、しっかり守らんといけんからねえ」が、口癖であった。
伯母はこの家を97歳まで一人で切り盛りしていたけれど、さすがにつらくなって宮島の対岸にあるケアホームに移る。ここでもすこぶる元気で、よく食べ、よく動いた。年に数回見舞いに訪れると、私の重い荷物を運ぼうとしたり、自分の食事を私に食べさせようとしたり、いつまで経っても伯母にとって私は子供にしか見えないらしかった。頭も言葉もしっかりしていて、「このホーム、年寄りばっかりで、気が滅入るのよ」と、私に向かって時々しかめっ面をする。周囲の人は、みな20歳ほど自分より若いというのに。
つい最近まで自分で箸を使って食事を採り、歩行器につかまって元気に歩いていた伯母が、この1年ほどで大分衰え、車いすに頼るようになった。話すことがよくわからなくなり、私がだれかも判然としないらしい。日中はうらうらと居眠りしている。今年の夏8月、104歳になったのだから、当然といえば当然ではあるけれど、頑健そのものだった伯母が目に見えて衰えはじめたのは悲しい。
それでもたまに見舞いに行くと、眠りから覚めて嬉しそうな顔をする。それから少し涙を流す。帰るときは悲しそうな表情になる。今回も広島から電車に乗って家内と一緒にホームを訪れ、「伯母ちゃん」と声をかけると、急に表情が生き生きとして、「まあ、大きくなったね」とはっきりと言葉を発した。104年間使ってきた脳に、私に関する記憶が積み重なって残っている。家内が手をにぎると、涙ぐみながら、うんうんと頷く。しばらく話しかけているうちに、また表情がとろんとし、うつらうつらする。それでも数時間後、これから横浜に帰る、また来るからねと声をかけたら、「まあ、帰るの!」と、残念そうに声を出した。広島は遠いけれど、もっと来ないといけない。
伯母を見舞う前、市内寺町にある我が家族の寺を訪れた。ここには戦後亡くなった祖父と祖母、そして伯父の墓がある。また伯母の実家の墓がある。原爆で亡くなった伯母の父も、眠っている。よその土地から広島に移り住んだ祖父母は、伯母の家の菩提寺を墓所と決めたのだろう。子供の頃、私は伯母に連れられて何度もこの寺を訪れた。墓参りは好きでなかったが、これだけは無理矢理連れて行かれた。もう寺のことなどわからなくなっているが、伯母はきっと私に行ってほしいだろう。そう思って遅ればせながら、盆の墓参りにやってきた。
まだまだ強い夏の日差しを浴びながら、家内と一緒に2つの墓の前を簡単に掃除する。墓地のわきにある井戸から水をバケツに汲んで運び、墓石にかける。買ってきた花を供える。この日差しでは、仏さんだって暑かろう。何度か水くみに往復し、最後にバケツを洗って寺へ返そうと流しに戻ったら、1匹の大きな蟻が流しのなかに落ち、這い上がろうと必死でもがいている。しかし濡れたステンレスの表面に足を取られ、ばたばたするばかりである。私が水を流せば、そのまま排水溝に落ちてしまう。かわいそうに思って、そばに捨ててある枯れ枝でそっと蟻を拾い、地面に逃がしてやった。命拾いした蟻は、足早に茂みの中へ消えた。
あれから2ヶ月が経ち、夏はすでに遠い。けれども伯母と蟻の姿が私の記憶のなかで重なり、消えない。先日ドイツ出張の帰り、機内で山下達郎の「さよなら夏の日」を聴きながら、年老いた伯母のこと、逃がしてやった蟻のこと、そして子供時代からこれまでの、さまざまな夏を思った。
(掲載日:2012/11/01)