寒さがようやく緩み、例年より遅く桜が花を開いたある週末の朝、自宅に近い横浜山手の丘に登った。元町公園周辺の桜はまだ三分咲き程度だったけれど、冬のあいだ枯れ木のように眠っていた桜の木がよみがえり、華やいで見える。
市営プールの横を抜け、階段を上がって聖公会の前に出て、山手の本通りを右に進む。カトリック教会の角で今度は左へ折れ、ゆるやかな坂の道をしばらく行った先に、日本最古のテニスクラブ、またその奥に小さな広場がある。山手の丘の南端に位置し、これも日本で一番古い洋式庭園だという山手公園の一部をなしている。本牧から根岸にかけての景色を一望のもとに見渡せるこの広場、そこに立つ何本かの桜の古木が、長く伸びた太い幹と枝に、今年も花を咲かせた。無数の小さな花びらが春の日差しに照らされ、まだ少し冷たい風に揺れている。
寒かった冬が終わり、春の兆しが感じられると、無性に丘へ登りたくなる。丘の上は空が開けていて、日差しが特別に明るいからだろうか。緩やかな傾斜を上がっていくこと自体が、心地よいのだろうか。それとも、ただ高いところが好きだからか。
三田の東門を入って東館の階段を上がり、左に折れて坂道を上っていくにつれ、幻の門の向こう、福澤邸のあったあたりに、三田山上の木々が見えてくる。桜が咲き、桜が散り、木々が芽を出し、少し赤味を帯びた小さな葉が次第に緑を増し、その葉がぐんぐん広がって、繁れる青葉となる。刻々と変わるその様子は、心屈して三田まで通う私にとって、せめてもの慰めである。
憂いつつ 岡にのぼれば 花いばら
蕪村
SFCのある遠藤の丘も同じだ。新学期になって久しぶりで足を運んだ。ようやく春めいてきたこの丘の光景は、すがすがしく美しい。残念ながらいつも忙しく用事に追われ、タクシーで一気に上ってしまうため、春先の木々の様子をじっくり見ていない。来年は毎週この丘を歩いて登り、春の訪れをこの目で確かめよう。
そもそも人は高いところが好きだ。古代人の住処のあとは、しばしば丘陵地帯で発見される。古代の天皇は山に登って、国見をした。万葉集巻一に、「香具山に登りて 望国(くにみ)したまいしときの御製歌」という舒明天皇の長歌がある。もっとも山といっても丘程度の高さしかない。本格的な山については、ジョージ・マロニーという英国の登山家が、なぜエヴェレストを目指すのかと訊かれ、「そこに山があるから」と答えたという。もっと正直な回答は、「エヴェレストがとてつもなく高いから」だったかもしれない。人は高い建物も好きだ。旧約聖書にはバベルの塔の話が載っている。我が国では出雲大社に上古、100メートル近い高さの本殿が立っていたという。現代でも各国は、高いビルやタワーを競って建てる。最近スカイツリーが人気を呼んでいるのも、同じだろう。
もっとも私は、このスカイツリーに親しみを感じない。無闇に高いだけのように思われる。幼いころから見なれた東京タワーのほうがずっといい。松任谷由美の歌に「手のひらの東京タワー」というのがある。
「本当は金色の鉛筆削りなの 手のひらに包んだ 東京タワー」
スカイツリーでは、こんな美しい詞は生まれないでしょうね。
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この春東北大学での国際会議に出席した。最終日の昼食が終了した後、参加者はバスに乗り、仙台の南、名取市閖上(ゆりあげ)地区を訪れた。東日本大震災の際、大津波で甚大な被害を受けた海岸沿いの地域である。
地震と津波の翌日、周囲の建物がほとんどすべて流されたあと、ポツンと取り残された閖上中学校の屋上から、救援に駆けつけた自衛隊員に向かって声をからして叫ぶ人々の姿を、NHKのドキュメンタリーで見た。中学の屋上に辿りつけなかった多くの人は、一瞬のうちに津波に呑まれ、命を落とした。中学の生徒も大勢いた。子供を亡くした母、同級生を失った生徒たち、教え子をなくした先生。ドキュメンタリーはあの日あまりに多くを失った人々の表情を、淡々と映し出した。閖上という麗しい名前が、記憶に焼きついた。
仙台から高速道路を南に走り、インターを降りて海岸の方角へ向かって走る。漁船が道路わきで、動かずにいる。津波はこんなところまで押し寄せた。さらに走ると、ある地点から先、急に建物がなくなる。ここが閖上である。瓦礫がすっかり片づけられているので、まだ家の建築がはじまらない分譲地のよう。平坦な土地が海岸までずっと続く。こんなに平らでは、津波が押し寄せたとき、逃げ場がなかっただろう。
閖上地区の海寄りに、日和山という小さな丘がある。丘といっても高さは6メートルちょっと。地元の漁民が海に出た仲間の無事と安全を祈るため、ここに土を盛って丘をつくり神社を建てたという。その神社も、津波ですべて流された。
バスを降りてこの丘に登り、周囲を見渡して、息をのむ。はるかかなたまで、何もない。すべてが流されている。残されたのは先ほど横を通った閖上中学校など、いくつかの建物だけである。丘のいただきには、松の木と、流されたあと建てなおした戦没者慰霊碑、そして神社の再興を願い、犠牲者を供養するために建てた「神籬(ひもろぎ)」という2本の柱。
震災から1年、海から直接吹きつける風はまだ身を切るように冷たい。あの日、恐ろしい津波をこの土地にもたらした太平洋が目の前に広がり、その広大な海から高波が海岸に防波堤に寄せては崩れ、また返す。強い風が肌にあたるのを感じながら、いただきでしばらく目をつぶり、亡き人々のことを思った。そして私は、重い心でこの丘を下りたのである。
(掲載日:2012/05/11)