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2010.10.07

閑さや|阿川尚之(SFC担当常任理事)

うんざりするほど暑くて長い夏に、ようやく終わりの気配がしはじめた頃、私はまた旅に出た。9月の第1週、片雲の風に誘われたわけではないけれど、山形と宮城を訪れ、吉野作造記念館での研修会に参加。東京へ戻ってすぐニューヨークへ向かい、同地の三田会と慶應NY学院の入学式に参列し、そのあとイェール大学での会合を済ませて帰国する。それから4日後、今度はワシントンへ飛んで有力日系米人を中心に発足した日米協議会の年次総会に出席。帰国直後、伊東でわが研究会の合宿、広島県江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校での講演と続く。新学期の講義も始まる。慌ただしいスケジュールだが、その間旅行先で常任理事としての日常的な仕事をしていた。誤解なきよう、念のため。

そもそも、忙しい忙しいと言いながら走り回る輩は、どこか変だ。多忙を口実に、深く考えるべき本質的問題に向き合うのを避けている。彼らは止まるのが怖いのだ。学生諸君に時々そんなことを言っている私自身が、忙しそうに訳もなく走り回っている。大いなる偽善。大いなる矛盾。しかしこればかりは何ともしがたい。せめて時々立ち止まり、一時間、いや一分でも、何もしない時間を作ろう。

吉野記念館での研修会に参加した折には、横浜を一日早く出て、経済学者のIさんと一緒に山形県の立石寺を訪れた。仙台で東北新幹線から仙山線という仙台と山形を結ぶ鉄道の列車に乗り替え、山へ入り峠を越えて、山寺という駅で降りる。電車が止まると、静けさが辺りを覆う。Iさんとここで待ち合わせて、立石寺に向かう。

山形領に立石寺(りふしやくじ)と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。

と芭蕉が「奥の細道」に記したこの古刹は、通称山寺というだけあって、下から見上げるとずいぶん高いところにある。頂上まで千段あると聞いた。その日はいくぶん暑さが和らぎ、日差しはまだ強いものの、木陰に入るとひんやりして心地よい。やわらかな風が吹いている。それでも登りはじめたら汗が出て、100メートルも行かないうちに、道のわきの、その名も円仁(慈覚大師の名)という茶店で、なつかしいラムネを求め、一息ついた。老夫婦が一組、縁台に座ってくつろいでいる。こっちに座れと勧められた。「今から登られるのですか」「はい」。静かな木陰で、言葉が交わされる。
「それにしても、お二人、変わった組み合わせですなあ」
いい歳の男が二人で連れだって寺巡りをしているのを、珍しく思ったらしい。
「はい、私の名前は「ソラ」、こちらの方のお名前は「マツオ」と言います」
と答えたら、老夫婦、一瞬ポカンとした。傍に芭蕉と曽良の像があって、くすくす笑っている。Iさんも大きな体をゆすって、はははと笑われた。
御堂に上る道は存外けわしく、岩山に巻きつくように折れ曲がりながら段々が続く。ゆっくり一歩一歩登って、やがて蝉塚という場所に出た。この寺で芭蕉が読んだ「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」という句の碑が立ち、その根っこに蝉の亡骸を埋めて供養しているとある。なるほど、周囲は静かである。蝉の鳴き声も聞こえない。観光客が声を発しなければ、何も音がしない。それからさらに登り続け、ついにたどり着いた開山堂も静まり返っていた。振り返ると、いま登ってきた山道のはるか下、ふもとの平地に集落があり、黄色く色づいた田んぼが広がる。その向こうにまた山があり、空があり、雲が浮かぶ。

それから3週間後、アメリカへ2度往復して帰ってきた私は、江田島の西のはしにいた。このあたり、江田島と地続きで町名も同じなのだが、能美島という別の島の名前で呼ばれている。ここに坪希という料理旅館があって、幹部候補生学校関係者がよく泊まる。卒業前には候補生が謝恩会をする。講演の前日、ここに宿を借りた。
まだ時差の影響が残っているらしく、翌朝5時過ぎに目が覚める。しばらく布団のなかでぐずぐずしていたが、ようよう周囲が明るくなるころ思い切って起きだし、外に出た。ほんの30メートルほど歩くと、すぐ海岸ぞいの道路に出る。防波堤があって、小さな漁港がある。畑港という名前である。朝早くから漁師が一人、小さな漁船の上で漁具の手入れをする。日はすでに昇り、日差しは強いが、朝の空気がすがすがしい。海が広がる。

いさな取る 坪希の海に 秋は来ぬ

目の前に大黒髪島という、こんもりと木の生い茂った無人島が横たわる。この島付近の海面は、海上自衛隊艦艇の泊地になっていて、10年ほど前、護衛艦「むらさめ」で山口県長門沖から呉まで一泊二日の航海をしたとき、入港前夜、描を打ち仮泊した。夜、闇のなか、この島が黒々と横たわっていた。連合艦隊が泊地にしていた柱島も、ここから南へそう遠くない。大黒髪島の西、朝日に輝く海面の向こうに、岩国の街が見える。山や島が海の上で幾重にも重なる。
漁港のあちこちに翼を休める青鷺を見ながら、防波堤沿いに少し北へ歩くと、小さな浜に出た。こちら側からは厳島神社で有名な宮島が見える。浜に人影はなく、内海のやわらかい波が寄せては返す。波打ち際に小石が散らばっていて、しゃがんでよく見ると、さまざまな色と形がある。まるで石器時代の道具のような、ちょうど手で握れる大きさの細長い乳白色のすべすべの石。竜安寺石庭の岩の一つを圧縮して小さくしたような濃い灰色の姿のよい石。真っ白で平らな、そして表面真ん中に一筋の脈が盛り上がって通る小さな石。
これらの石はいつどこで出来、どうやってこの浜に辿りついたのだろう。高校の地学の時間、居眠りばかりしていたので、名前も種類もわからない。それに石は人間と違ってものを言わない。数億年、数十億年の履歴をひけらかすことなく、おし黙っている。もの言わぬ小石をいくつか拾い、ポケットに入れた。浜はすこぶる静かである。

この3週間ほど、あちこちへ旅をした。山形、ニューヨーク、東京、ワシントン、そして江田島。慈覚大師や芭蕉の時代、船に乗る以外、旅はもっぱら徒歩であった。京都から江戸へ、さらに陸奥の国へと歩いた。慈覚大師は船で中国へ渡り、そこでもひたすら歩いた。わが福澤先生だって、とにかく歩いた。昔の旅はさぞかし大変だっただろうが、時はゆったりと流れ、静寂はありあまるほどあっただろう。陸と海と空に包みこまれるようにして、旅を続けたことだろう。
最近パールハーバーで催された日米若手海軍士官の集まりで、米海軍の最高指揮官であるラフヘッド作戦部長が、士官として心得ておくべきことは何かという質問を受けて、次のように答えた。

Sometimes you should have a quiet conversation with yourself. (時々、自分自身と、静かに対話をしなさい)

SFCの諸君。時には書を捨てて野に出なさい。PCと携帯を捨て、iPodもiPadもみんな置いて、旅に出なさい。そして自分自身と静かに話をするといい。

SFCに帰ったら、学生諸君にそう話そうと思いながら、秋の朝のひと時、波の寄せる能美島の海岸に、しばらく立っていた。

(掲載日:2010/10/07)