9月になっても記録的な猛暑が続いている。それでも、虫の音が草むらから聞こえるようになり、青い柿の実が日々大きくなるのを見ると着実に秋の気配を感じる。
宿題といえば夏休み。休みの終わりに近づくと、ためていた日記を書いたり、学習帳や何か作品をしあげたり、子どもの頃からいつもあわただしかった。作曲するという宿題もあった。ほとほと困りはて、身近な音をヒントにしようと、窓の前にある青桐にとまって鳴くツクツクホウシに気がついた。夏ももう終わりといったテーマにしようと思い立ったのは良かったが、単純にミーンミーンではなく、ホイッショ、ホイッショ、だんだん早くなってホイッショ、ホイッショそして高くホーと上げてからツクツクツクツクと細かく刻むのである。この鳴き声の変化を真似るのに往生し、出来栄えがいいはずはなかった。
学生生活を終えたら宿題から解放されるかというとそんなことはない。教員として宿題を出す立場になったが、普段の仕事はいつでも、どこでも宿題ばかりである。宿題を課題と捉えてみても、周りから求められるものと自ら自分に課すものとがある。
日頃の自身の行動を振り返ると、課題であり続けているのが「整理整頓」である。もともと得意でなかったのが、忙しさを理由に滞っていたら、あっという間に乱雑さのただ中にいるという惨めな状態になっている。
小説家幸田文*は、小さい時に母を失い、父である露伴から朝晩の掃除、米とぎ、洗濯、火焚き何でも教わった。本格的な掃除の稽古は14歳から始まった。掃除は、道具の準備を丁寧に行い、まず整頓をしてから、はたきかけ、そして箒をつかうという順だ。
障子のはたきかけがすごい。はたきの房を短くし、父・露伴が行うと、障子紙には触れないよう、埃はどこにあるか目で見ながら的確に障子の桟にはたきの房の先が触れて、リズミカルに軽快な音を立てる。一方、娘・文の手に移ると、房の先を使おうと思うあまり力が入って、ピシリピシリと破壊的な音を出して紙に触れ、桟に触れない。
父の厳しい教え方に不満があっても、見せてくれる技法と道理の正しさが、まっすぐ娘の心に通じてくるのである。さらにその日の稽古は終わりというときも、礼を言ってさっさと出ていこうとすると、「あとみよそわか」と呪文を唱えてもう一度周りをよく見渡し確認するように念押しされる、といった習練だったそうである。
この話を時々思い出しては、生活の仕方、物事への対し方、生き方の構えといったことを考えさせられるのである。「整理整頓」は日常のことでありながら、実に奥深く、心模様の写しでもあろう。「あとみよそわか」と唱えながら、やれるところから実行しようと思う。
*幸田文著 『こんなこと(あとみよそわか)』 幸田文全集、中央公論社より
(掲載日:2010/09/07)