梅雨明けのとたんに連日の猛暑、百日紅の花が風に揺れているのに気付き、まさに夏、暑いはずだと気付いた。お盆の季節、いまは亡き大事な人々を懐かしく身近に感じるころである。
子どもの頃、人間は死んだらどうなるかと明治生まれの祖父に尋ねたことを思い出す。「人間の体は死んだら無くなるが、霊魂は生き続けるのだと思うよ」と答えてくれた。重ねて、霊魂はどこにいるのと問うと「ほら、軒下のようなところから見ているんだよ、きっと」。その時は薄気味悪く感じたが、いまは確かにそうだと思える。
その後、100歳まで生きた祖父は、「もうここまで生きてきたら、これ以上長生きしようとは思わない。何の欲もない。ここまでこれたことを幸せだと、皆に感謝しているよ。こんな気持ちになれる人は少ないと思うよ。何もしないで自然のまま、このままがいい。無理をしないでいるのが一番いい」。死ぬってどういうことかなと、思い切って聞くと「最後は眠ったまま目が覚めないようなことではないかな。そういうのがいいね。目が覚めないからお世話になりましたって、言っておくよ」と淡々と話してくれた。そしてほんとに、そのとおり眠ったままの静かな最期だった。
しかし、なかなかこのような静かな最期を迎えることは誰でもできることではない。逝った人の思いを推しはかることも難しく、見送った側はさまざまな後悔の念に駆られる。失った衝撃が大きすぎて、ああすればよかった、こうすればよかったの思いで自身をがんじがらめにしそうになる。時がそのような気持ちを少しずつほぐしていってくれるにつれ、いろいろな思い出を語ることができるようになる。
がんを患った子どもたちと向き合ってきた小児科医である細谷亮太氏は、「愛する人との別れはつらい。まして最愛の我が子を失った親の悲しみははかりしれない。父母の会でつながりながら、親たちが立ち直り明るく子どもを回想するようになると、同じ涙でも質が変わる。愛する人は残された人の心の中で生き続ける」と語っている。
家族同様のペットにおいても然り。ペットはことばではなく、表情、鳴き方、全身の様子を通してさまざまなことを語ってくれる。ことばでの表現ではない分、なお一層、それは何を言おうとしているのかを知ろうとする行為、まさにケアの本質に通じる賢慮(フロネーシス)が必要なのだと思う。そして、タロの最後の最後にそれが足りなかったと後悔している自分がいる。
もしかしたらそれすらもタロはすべて見通していたのかもしれない、そのような逝き方だった。きっと、大事な人々と一緒にずっとこちらを見守っていてくれていると、確かにそう感じられる身近さを抱きしめている。
(掲載日:2010/07/21)