ワールドカップが世界中で盛り上がっている。ワールドカップは各国間の戦争の代替装置として、現実の戦争を回避するために4年に1回開催される世界的行事だから燃えるという説がある。確かに長く戦争を続けてきたヨーロッパの諸国の盛り上がりはすごいものがあり、ベスト4にも3カ国が残っている。国の名誉をかけてワールドカップに臨む姿は、人口1700万人足らずのオランダのがんばりを見ていれば分かる。フランスとドイツに挟まれて、自国の存在をアピールし、国民を統合する絶好の機会であり、それは、わが国での日本・韓国戦を見れば肯けるはずである。サッカーは郷土愛や愛国心の発揚の場であり、イギリスのように「郷土愛・愛国無罪」のフーリガンが発生する危険性が潜んでいる。
とはいえ、「サッカーはボールを持った者が王様である」という言葉どおり、玉をもらおうと11人のプレーヤーが空いたスペースをねらって次々と走り込んでいる様はまさに人生そのもの、やはり見ていて楽しい。全員に得点チャンスがあり、それゆえに全員の動きを映し出すようにカメラの視線はJリーグ以上に高い位置から取られていた。
そして、予選リーグでは引き分けでも勝ち点1をもらえる。守り続けてワンチャンスを生かして、1点を取って勝利すれば勝ち点3がもらえるのである。どうして守り続けているのかと非難され、攻撃主体に変えたら7-0でボロ負けした北朝鮮のようになってしまう。
10個のチャンスがあっても決められなければ負けであり、頭を働かせなければそれがチャンスであることすら気づかない。大航海時代や帝国主義時代に若者のエネルギーと老人の知恵を生かして、世界に植民地を築いたヨーロッパ勢が強いのは当然かもしれない。
しかも、90分の最後にはロスタイムが表示され、4分などと長ければ逆転は可能であり、お互い最後の攻撃と最後の守備に全力を投入するのである。試合中断の時間がロスタイムとなるが、仮に人生にもロスタイムがあればどう判定するのか、例えば、学部からそのまま大学院に来た者にとってはロスタイムに判定しないが、社会人にはロスタイムとして認めるなど神の配慮をお願いしたいものだ。
さあ、私も人生の最後にロスタイムをもらったら何をするか、今から考えておこう。
(掲載日:2010/07/08)