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2008.11.06

ああ中之島|阿川尚之(総合政策学部長)

アメリカについてのシンポジウムに出席するため、10月19日大阪に入った。シンポジウムは20日の午後から。移動は翌日の朝でもよかったのだが、わざわざ一日早く出かけたのには訳がある。京阪電車中之島線が10月19日開業したのである。

関西出身の人ならよく知っているように、京阪電車は京都と大阪を結ぶ私鉄である。阪急電鉄の特急電車が河原町駅から梅田駅、JR西日本の新快速が京都駅から大阪駅まで結ぶのに対し、京阪特急は出町柳駅から淀屋橋駅までカーブの多い京阪本線をひた走る。創業は1910年、今でこそ京阪特急は、三条、祇園四条、七条、丹波橋、中書島、樟葉、枚方、京橋とごちゃごちゃ停まるけれど(平日夕方の快速特急淀屋橋発出町柳ゆきは、枚方、樟葉を通過)、以前は七条を出ると京橋までどこにも停車せず突っ走ったものだった。20年ほど前、それを知らずに七条の駅で淀屋橋行きの特急にふらりと飛び乗ったら、大阪まで停まらない。しかたなく終点淀屋橋から梅田まで歩き、食事をして、これまた当時は途中十三(読めますか?)にしか停車しない阪急特急で京都へ帰った。あこがれの京阪特急「テレビカー」にちょっと乗りたかっただけなのに。

その京阪電車が新線建設の工事を進めていることは、前から聞いていた。京橋で京阪本線から分かれ地下にもぐると、天満橋、なにわ橋、大江橋、渡辺橋と止まり終点中之島まで、新線は堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島の地中を東から西へ進む。その新しい中之島線がシンポジウムの前日開業するというではないか。絶好の機会だ。乗りに行こう。

そんなわけで、10月19日は昼過ぎ新幹線「のぞみ」号(運よくN700系)で京都に到着し、市営地下鉄に乗り換えて烏丸四条へ。大丸の前で同志社大学在籍中の息子と待ち合わせ食事をしてから、京阪三条駅まで歩いた。運良くすぐホームに入ってきた8000系特急電車の2階建て車両(ダブルデッカー)階下部の座席に陣取り、通過駅のホームをあごでかする感じで京橋をめざす。関西の地名は奥ゆかしいものが多い。通過する駅、停まる駅の名も、東福寺、鳥羽街道、伏見稲荷、深草、墨染、伏見桃山、中書島、淀と、まるで日本史をおさらいしているようだ。

特急は枚方を出ると京橋までかなり長い間、どこにも停まらずに速度を上げて走る。パナソニックの門真も三洋電機の守口も、あっという間に通り過ぎる。大阪市内に入ると沿線にマンション分譲の広告、アパート入居者募集の広告が並ぶ。ところで「パンション」分譲ってなんだ?大阪には、けったいなもんがありますねえ。

淀屋橋ゆき特急電車を京橋で降り、いよいよ中之島線の電車に乗り換える。ほどなく到着した普通電車先頭の車両に乗り込んで驚いた。日曜日の昼間だというのに、人で一杯なのである。どうやらみなさん鉄の道の方々で、開業日に京橋から中之島まで乗ったという記録を達成したい、電車が中之島線に入っていくのを先頭車両からこの目で確かめたい。そう思っているらしい。ベビーカーに子供を乗せた鉄ママ、おむつやら哺乳瓶やら入れたバッグを抱える鉄パパ、ナップザックを背負い帽子をかぶった相当年配の鉄ジー、ちょこまか動き回る鉄少年、みんな申し合わせたようにカメラをかまえ、運転席をのぞき込み、尋常ならざる気迫。ドアが閉まり発車するのを、固唾をのんで待ち受ける。彼らの頭上、運転席背後の壁には、成田山新勝寺の御札が貼ってあった。

ほどなくドアが閉まり、車掌室から発車オーライを報せるブザーが鳴って運転士がコントローラーを押しこむと、電車はゆっくりと走り出した。しろうと目にも真新しいレールの上を進み、次第に地下へ入っていく。周囲でカチャカチャとカメラのシャッター音がする。京阪本線は京橋で上り2本、下り2本となり、天満橋の地下駅につくまでに上下1本ずつが交差して、中之島線の上下、京阪本線の上下がそれぞれ並行する2つのホームに分かれる。ここを出たところで左右に分離、本線は土佐堀川の南側を淀屋橋へ、新線は同じ川の北側へ渡って中之島へ入る。この説明わかるかな。鉄の方たちには、これがたまんないのである。天満橋駅を出て電車が右へカーブを切ったら、背後で鉄ジーが、となりの中年の鉄息子に、「ああ、カーブや」と、感極まった様子でつぶやいた。

中之島へ入った電車が最初に停まるのが、なにわ橋。明るく照らされた駅が見えてきて、電車がホームにすべりこむと、なんとここにも大勢の京阪電車ファンがおり、こちらを向いてしきりにシャッターを切っている。次の大江橋、次の次の渡辺橋、そして終点中之島もそう。いくら開業日だと言っても、もう午後4時近い時間である。今朝の始発から電車は何本も新線へ入ってきたはずなのに、この異様な高揚はなんだ。私はそれほど熱狂的な鉄チャンではないが、大阪の鉄人たちが示す京阪電車に対する愛の深さに接し、不覚にも涙ぐみそうになった。

終点に到着した電車から降りた鉄チャンたちは、今度は先頭車両の前面をホームの端から写真に収めようと必死である。電車より彼らの姿が面白いので、私も携帯電話のカメラで数枚撮る。向かいのホームに入った3000系新型車両を見てから、さあやれやれとエスカレータを上がりごった返す駅構内を改札口に向かって歩いていたら、脱兎のごとくホームへ向かって駆け下りていく中年のおじさんとすれちがう。何とよく見ると、SFCの同僚の上山信一さんだ。「上山さん」と声をかけると、「あっ」と言うものの立ち止まらない。方向を変え一緒に走りながら聞いたら、これから船場で会議がある。まっすぐタクシーで行けばすぐなのだけれど、開業日だから京阪電車で行こうと阪神電車福島駅から中之島駅まで歩き、2駅目の大江橋で降りてタクシーをつかまえ会場に向かう、遅れそうだと、ぜいぜい言いながら電車に飛び乗って、そのまま行っちゃった。忙しいのなら、わざわざ乗りにこなきゃあいいのに。

ところで中之島の周辺は、福澤諭吉先生ゆかりの地でもある。生まれたのは父君が勤めていた中津奥平藩の大阪蔵屋敷で、中之島の対岸、堂島川にかかる玉江橋北詰あたり。中津へ帰って少年期を送った先生が大阪へ戻って学んだ緒方洪庵の適塾は、京阪淀屋橋駅からすぐ近く、土佐堀川の南にあった。この一画で若き日の福澤先生は大いに勉強し、大いに遊んだ。ずいぶん悪さもしたと、自伝で語っている。だから適塾をその起源の一つとする大阪大学にとって、福澤諭吉は緒方先生の門下生ということになる。中之島界隈でも福澤先生の令名は高く、駅構内あちこちに貼られた中之島線開業宣伝ポスターの一部も先生がモデルだった。ポスターには「シマへ行こう。10月19日京阪電車中之島線開業!」と書いてあって、笑福亭仁鶴扮する先生が「あの頃あったら、適塾通いも楽だった。福沢諭吉」とつぶやいている。豊臣秀吉、五代友厚と並んで、先生大阪でもがんばっておられる。慶應義塾のことがひとつも書いていないところが、あっぱれ。慶應がなくたって、福澤は立派だ。我々もそうありたい。

ちなみに翌日、サントリー文化財団の助成を受け、大阪大学と慶應義塾大学共催で行われた、「変わるアメリカ、変わらぬアメリカ」という名前のシンポジウムは、多くの来場者があり盛況であった。場所は中之島駅と渡辺橋駅のあいだ、堂島川を見下ろす大阪大学中之島センター内にある佐治敬三メモリアルホールである。シンポジウムにご参加いただいた鷲田阪大総長によれば、このあたり一帯はかつて阪大の医学部があった所だそうだ。適塾がいつか大阪大学医学部へと発展し、その跡地の地中に京阪電車の新線が通って、中之島は新しい時代を迎えた。阪大中之島センターと川を隔てて向かい側には、このたび開かれた慶應大阪リバーサイドキャンパスがあって、佐治ホールの控え室からよく見えた。福澤諭吉誕生地記念碑は、そのすぐ近くにあるという。

適塾に中之島線で通いたかっただろう大阪の福澤先生は、創立150年を迎えた今の慶應義塾とその学生・生徒を、どのような思いで見ておられるだろうか。

追記
京阪乗る人、おけいはん
京阪降りると、お慶阪

(掲載日:2008/11/06)