かつて、私が看護学生だったころ、「看護の‘看’という文字は、‘手と目’でできており、‘護’という文字には‘身(人)を守る’」という意味があり、「看護とは、‘手と目で人を見護ること’を象徴した言葉である」という説明に、「なるほど・・」と深く感銘を受けた記憶がある。
古い記憶のついでに思い出すのが、人類学者マーガレット・ミードの「看護―原初の姿と現代の姿、1956年のアメリカ看護協会での講演」の中に出ている看護の本質についての記述である(稲田八重子他訳、看護の本質、現代社、1967)。彼女は次のように話している。
「私たちの現代社会では、病院の中で、多くは真夜中に、出産と死とがひそかに起こっており、人々は何事もなかったように家でくつろいでいます。・・・・私たちは、出産や病気や死という人間の現実から、なんと遠く隔てられて生活しているのだろうかという感じが、つくづくいたします。
・・看護という使命ある職業は、その職業ができる前から必要であった「必要不可欠の社会的機能の守り手として、生・病・(老)・死の、弱く傷つきやすい人々をかばい守るという、独自の機能を営む1つの集団であり・・・、人間の現実に対して、思いやり・いたわり(compassion, compassionate)を示す、実践活動である」として位置付けています。
・・昔と比べると、私たちの間には、自分の手を使って仕事をする人が少なくなりました。・・・そうした傾向の中で、看護師は、一個の専門職業にたずさわる者として、皆さんのその両手と皆さんの人間性とを用いて仕事をなさっているのです。・・・皆さんの暖かい洞察力のある人間欲求の理解がすぐに皆さんの両手の働きとなって現れるということをなさっているのです。
手と心と頭とが一体となって働きうることを、私たちは看護するという仕事を見て、信じるに至ります。というのは、看護という仕事にこそ、人間の手がいかに大切な働きをするかを私たちに教えてくれるからです。・・・私たちは、苦しんでいる子どもの肩にそっと置かれる看護師のいたわりの手を、亡くなった人の瞼をそっと閉じる看護師のいたわりの手を、その手に込められた真実の思いやり・いたわりを発見するでしょう」と。
M・ミードの上記の講演集を見るとき、人間の、弱く傷つきやすい現実(生・病・(老)・死)は、50年経った現在も、本質的には、変わっていないように思える。ある意味では、毎日のように「生・病・老・死」のいずれかに接する看護者を育てる看護教育では、看護学生が思いやり・いたわりを示しつづけられる「やさしい手」を持ち続けることができるように、心と頭を磨く学習や実習を積み重ねている。そのエネルギーを生み出してくれるのは、やはり看護者と人々との相互作用であり、弱く傷つきやすい人々が示してくれる「思いやり・いたわり」への感動である。
(掲載日:2008/06/19)
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