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2008.08.08

おかしらとオリンピック|大西祥平(健康マネジメント研究科委員長)

私がスポーツ競技団体との関係を築くきっかけとなったのは、一人の整形外科医の影響でありました。藤沢湘南台病院のスポーツ整形外科医の高尾良英先生が神奈川県体育協会のスポーツ医学専門委員会のメンバーとして私を迎えてくれました。そして、秋期また冬季の国民体育大会のメディカルドクターとして参加しました。その仕事の成果を認めてくれたのかどうかはわかりませんが、高尾先生の推薦で日本オリンピック委員会の医学サポート部会の委員として入りました。JOCの国際大会として、ユニバシアード大会、アジア大会そしてオリンピックとありますが、まず私はユニバシアード大会の冬および夏の2大会に本部医務班として参加しました。

スポーツドクターとして、参加できる最高の大会としての国際大会はオリンピックです。数多くのどさ回りをした後と、下積みを経てといった感じです。あこがれのオリンピックに参加できたのは冬季のソルトレーク大会、そしてトリノ大会でした。

読者の皆さんは全く経験が無いでしょうが、開会式に参加し、メインスタジアムの大観衆の中で日の丸を振って入場行進するのは誠に鳥肌が立つ感動があり、私自身は競技する訳ではないのですが、晴れがましい興奮の極みに達する経験を致しました。最初のソルトレーク大会の開会式参加は、実は他の人に譲りました。医務班全ての人間が参加できるのではなく制限されており、「これっきりのオリンピック参加であるのでなんとかして参加させてほしいと」の希望が他の人にあり、その機会を譲りました。残念でしたが、閉会式のときは参加し、このときの感動も大変でした。

この開会式や閉会式は極めて楽しいイベントですが、それ以外で誠に大変なのは選手村での生活です。いつ起きていつ寝ているのか全くわからない毎日を過ごします。大会期間中いろいろなことが起きます。選手の様々な体や心の問題に対応するのですが、本当に忙殺でした。しかし苦痛は全くありませんでした。選手に少しでも役に立てればとの思いだけでした。選手が試合の前日に現れて、3時間にわたり選手の苦情や不安等を聴き、励まし、何のためにオリンピックに参加し、今なぜここにいるのかがわからない状態から脱出させ、といったことも何回かありました。選手にとっては私には想像もできないプレッシャーに押しつぶされそうになっているのでした。私は聞き役そして、少しだけアドバイスをしたのですが、翌日の試合当日の朝選手が私に向かってにこやかに「先生、行ってきまああーす」とトリノの朝の抜けるような青空の中でさわやかな顔で返事をしてくれたことは、スポーツドクター冥利につきるものでした。医者にとっては、患者さんが病気の軽快や治癒により笑顔が戻る、この瞬間が全てです。スポーツドクターも同じでした。

次は2010年のバンクーバーオリンピックでありますが、正直申しまして体力が続くかどうかが不安な年齢となりましたので、選手の期待に応えられるかどうかで参加を決めようかと思っています。一見、スポーツドクターも晴れがましい役割りではありますが、裏方であるこの世界での仕事内容はなかなか全て語れるものではありません。

しかし、身を粉にして働いているご褒美がトリノオリンピックの時に得られました。日本選手団の団長さんが私に切符を分けてくれました。スケートの岡崎朋美さんと二人でフィギュアスケート女子のフリーの会場でデートしたのです。これは私の勝手な思いですが。そして、荒川静香さんの金メダル演技を見ました。彼女がアリーナに現れた時、これから演技が始まるその瞬間ですが、鳥肌が立ちました。光って見えました。そして最高の演技で、途中から観客の多くはスタンディングオーベーションでした。涙の中に日の丸の国旗、君が代斉唱は私自身にとっての最高のご褒美でした。

まだまだ書き足りませんが、字数制限をオーバーしていますので、これで終えます。

(掲載日:2008/08/08)

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