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2008.07.10

すゝめ福澤特急|阿川尚之(SFC担当常任理事)

六月中旬のある土曜日、公共政策学会という業界の集まりに出席するため、北九州小倉を訪れた。百歳になる伯母を前日の金曜日広島に訪れ、翌朝小倉に入る。新横浜から広島まで、そして広島から小倉まで、新幹線の旅である。広島へは、このところ編成数が一挙に増えたN700系の車両であった。これまでの700系より加速がいい。しかもバンク(曲線区間に設けた線路の横傾斜)にかかると、空気バネの力で車体がさらに1度傾き、270キロの高速を保ちながらカーブを切る。まるで飛行機に乗っているようだ。

大学で教えているにもかかわらず、私はそれまで学会というものに出席したことがなかった。にわか学者の私を誰も誘ってくれないし、暇もない。しかし今回はプログラムの一部として行われたパネル討論に参加するよう頼まれ、出かけた。比較的少人数で議論をするのは楽しかったけれども、ちょっとのぞいた全体会議では何やら難しい議論がなされていて、よくわからない。早めに退散した。会場の大学と小倉駅を結ぶモノレールに乗って往復したのが、一番の収穫だったかもしれない。

翌朝、小倉は雨である。学会2日目は、最初から出るつもりがない。せっかく九州まで来たのだから、横浜へ帰る前にどこか1ヶ所訪れよう。調べると、福澤先生の故郷中津まで、存外近い。帰省中の総合政策学部学生T君に電話をかけると、付き合ってくれるという。JR小倉駅の改札口で待ち合わせ、T君とその友人、そして私の3人、勇んででかけた。博多始発大分終着のL特急「ソニック7号」は、小倉を定刻通り9時17分に発車、行橋、宇島に停車して、9時52分中津へ到着した。35分しかかからない。

本降りになった雨のなかを、歩いて福澤邸へ向かう。T君が駅のすぐ近くだというので見当をつけて歩きはじめたのだが、途中で迷った。道を聞こうとしても、この町、人がいない。日曜日の朝だからか、とにかく人がいない。全然いない。ようやく向こうからやってくるおばさんを見つけて訊ねると、まっすぐ行けばいいという。はっきりしなかったが、とにかくまっすぐまっすぐ歩いていったら、福澤邸の入口がひょいっと現れた。

まず目についたのは、「福澤諭吉宅跡 明治十年六月三日」と彫られた、むやみと背の高い石の碑である。なんだか大げさである。隣に駐車場があって、観光バスが停まるらしい。前に食堂まである。いかにも観光地っぽい。それでも入場料を払い屋敷の中へ入ると、そこには確かに福澤先生の家が静かな佇まいで保存されていた。この家で先生が長崎遊学の前の日々を過ごしたかと思うと、慶応に縁ある者としては、感慨深い。それにしても、福澤諭吉は貧しい下級士族の家で生まれ育ったのではなかったか。先生の家は、横浜のわがマンションに比べ、ずいぶん広い。うらやましい。土間に入ると、今や珍しい竃(へっつい)と石の流し、流しの上には蒸籠(せいろ)と鉄鍋がある。ガスも水道も、電気もない。夫を亡くした福澤先生のお母さんは、これだけの台所で三度の食事を作って子どもに食べさせ、子どもたちを育て、教育を施し、病気になれば看護もして、息つく暇がなかっただろう。軒を見上げると茅葺の屋根に雨がかかって、やむ気配がなかった。

名所旧跡というものは、じっくり見るより、そこへ足を運んだ、そのことに意味がある。中津へ来て、福澤先生の家を見たからには、もう心残りはない。小倉へ戻って昼を食べよう。衆議一決するや、先生が毎日歩いたであろう寺町の一角を早足で抜け、駅に戻った。帰りは中津発11時1分、小倉着11時32分の「ソニック20号」である。こんどは行橋しか停車せず、わずか31分の列車の旅であった。

それにしても、JR九州の電車・列車は、すてきだ。どの車両も、デザインに工夫があって、鉄道好きにはたまらない。そのなかでも特急ソニックは、普通車でもグリーン車並の豪華さである。外観も凝っていて、往路は「白いソニック」、帰路はメタリックブルーの「ソニック(883系)」、どちらも格好いい。コモンスペースあり、通路のわきにしゃれたカウンターあり、車掌室はガラス張りだし、あそこまでやるのは、きっとJR九州の偉い人が鉄道を心から愛しているからなのだろう。

列車の心地よい振動に身を任せながら、小倉に向かって走っていると、前方のドアが開いた。驚いたことに入ってきたのは、福澤先生である。先生私の隣に座ると、「失礼ですが、あなたは塾の教師ではないか」「どうしてそれをご存じで」「何、こんな雨のなか、用もないのに中津くんだりまで出かけるのは、大体慶應の関係者と見て間違いはなかろう、そう思って訪ねただけです」と言って、にやりとする。なんというご明察。「ところで昨今の塾はどうですか」福澤先生、身を乗り出して尋ねる。「ええ、まあいいところも、それほどよくないところもありまして。学部長は仕事が多くて、つかれます。でもSFCの学生はなかなか元気でやっておりますですよ」。先生の前だと緊張して舌がもつれる。「そうですか。それなら安心だ。創立150年を機に立派な建物を建てるのもいいが、これからの若者が独立自尊の精神を忘れぬよう、自由で伸び伸びとした大きな人物となるよう、この福澤が望んでいたと、伝えてください」

話しているうちに、列車は早くも小倉駅に到着した。先生は会釈をして一足先にホームに降り立つと、雑踏のなかをひょいひょいと歩いていかれて、姿を消した。歳の割にお元気である。

福澤先生が去られたあと、私のポケットのなかには、福澤邸の庭で拾った梅の実がいくつかあって、ほんのり甘い香りを放っていた。その梅の実を私はかばんにしまい、別れたばかりの福澤先生のことを思いながら、新幹線「のぞみ」号(今度もN700系)に乗り換えて、東へ向かったのである。

(この記事には真実でない記述が含まれています。健康のために読みすぎに注意しましょう)

(掲載日:2008/07/10)

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