3〜4歳の和装をした男児がぎこちなく歩きながら、両手で大事そうにお茶碗を抱え、真剣そのものに「お茶のお運び」をしている一場面を、ほんの一瞬どこであったかテレビで見ました。子供の両手の中の茶碗は、今にも中身がこぼれそうに傾いていて、通りすがりの私は「ハラハラ」しながら、一瞬そのシーンに強く釘付けになり、感動させられました。この子どもの真剣なとりくみに加えて、男児の斜め後ろには、同じく和装をした20歳前後の青年がその子供を助けようと立っていて、「青年の手」は今にも出そうになりながら子供の動きを見守り、その青年も足を引きずりながら、子供の歩みを誘導していたからです。後にしばらくしてわかったことですが、これは「ねむの木学園」の運動会の一場面でした。
自分のことをするだけでも精一杯の障害をもつ青年が、小さな子供のことを気遣い、「手が出そうになりながら一緒に歩く」あるいは行動する姿に、「他者への思いやり」が自然に身に付いている青年の姿が読みとれて、私は深く感動し、気が付いたら目頭が熱くなっていました。
多くの方々がご存じのように、「ねむの木学園」は1968年に女優の宮城まり子さんによって創立された日本で初めての私立の肢体不自由児養護施設です。40年前のこの学園の創立は、当時看護学生であった私たちに強い印象を与えました。
最近になって宮城さんの施設創立の動機になった「就学猶予」や障害を持つ子供との出会い、障害のある子供の役が演技できなかったことなど「・・自分の思うとおりに手足が動かなくて、思わぬところにいってしまったりする・・・それを舞台で見せて、お客様を笑わせるなんて、・・・どうしてもできなかった。・・私はやれなくてよかったって思った。あの子ひとりのためにでも、あの子が抱えている苦しい・・の演技をしなくてよかったって」(宮城まり子:こどもたちへの伝言、NHK知るを楽しむ・人生の歩き方、NHK出版より抜粋)を読む機会をもち、彼女の見識や感性の豊かさには、感動させられずにはいられませんでした。また、宮城さんは、40年間の歩みを「この子たちのため、環境を大切にし、良くし、宮沢賢治じゃないけれど、東にいい病院があれば飛んで行き、西に良い先生がいられるときいたら訪ね、南に、勉強になるところがあればどんな時間をさいても、北にいい仕事があれば飛んで行き、・・・教育はどうすればよいか悩み、・・・よい音楽会があれば連れて行き、・・この法制の変わる2、3年が、一番苦しく死にたいナなどあさはかなこと思いながら、また走り回る自分。・・・」と述べています。宮城さんのこのような人生へのコミットメントの原点は、幼少時に両親から受けた愛と、その中ではぐくまれた彼女の感性、責任感、そしてねむの木のこどもたちの教育実践の中で感じられる手応えの中から出てくるのではと思われます。80歳を越えられた宮城さんは、後継者やねむの木学園の将来についての質問に次のように答えています。「きちんと物事を考え、感じ、愛の多い人が、継いで下さる。私の「心」はこどもたちが継いでくれると信じています」と。声援を送らずにはいられないほど、何とすてきな確信に満ちた言葉でしょう。人生の歩き方のお手本として、示唆に富む言葉に思えました。
(掲載日:2008/01/24)
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