見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋のゆふぐれ
藤原定家の歌だ。浜辺でまわりを見わたしたが、花も紅葉もない・・・。「ない」と言うことで、かえって、いろいろな思いが去来することになる。この歌は、文化や歴史についての私の「師匠」である松岡正剛さんから教えてもらったものだ。私の「心のふるさと」は、この辺にある。しかし、それに気づくには、かなり時間がかかった。
私は、慶應大学工学部管理工学科を卒業したのであるが、そのころ、日本社会の「あいまいさ」に嫌気がさして日本を飛び出した。スタンフォード大学で三年間学びPh.D.をとり、その後、九年間、ウィスコンシン大学で教えた。数学とコンピュータが専門分野だったが、三十代後半に日本に戻ってからは、人のつながりやボランティアなど、よりあいまいな関係性に関心が移った。そして、次第に、「日本の文化」について知りたいと思うようになった。
そこで、友人であり、いずれもIT系の国際企業の日本法人社長として、やはり日本文化について知りたいと思っていた、シスコシステムズの黒澤保樹さんとオラクルの新宅正明さんと三人で、松岡正剛さんにお願いして、日本文化についての一連の講義をしていただくことになった。「連塾」と銘打ったこの講座の主テーマは、日本文化の中に「日本という方法」というべき、ネットワーク的な情報編集の方法が潜んでいるということだ。その中で、冒頭の定家の歌についても教えてもらった。
連塾の生徒としての受け売りではあるが、「ないものを見る」という「日本という方法」は、国学を創出した本居宣長のいう(「からごころ(漢意)」に対比される)「いにしえごころ(古意)」や「もののあはれ」のひとつの現れだと思う。それは、また、私が帰国して関心をもちだしたボランティアに通底するものがある。だとすれば、日本的なものは、実は、世界的なものに通じていることになる。それについては、別の機会に、お話ししたい。
(掲載日:2007/11/15)
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