3月なかば、米国の首都ワシントンまで旅をした。正味3日の短い旅である。本当は5日に出発して日米関係を論ずる会議へ出席する予定であったのだけれども、4日未明、小島朋之前学部長が亡くなり、急遽取りやめた。ただどうしても出席せねばならない別の会合があったので、ご葬儀が終わったあと、あわただしく出かけたのである。
親しい人の死はつらい。亡くなったのが、SFC着任以来お世話になり、ここ数年学校の運営にあたって苦労を共にした小島さんであれば、なおつらい。ご逝去を知って病院に駆けつけたとき、外はまだ真っ暗だった。けれども数時間経つと、鳥が鳴きだし、夜は白々と明ける。病院の廊下を人が歩きはじめる。変哲のない一日が始まる。
人はやりかけの仕事と、つくりかけの思い出をたくさん残して、この世を去る。多くの人を励まし、多くの人に愛され、多くの仕事をこなした小島さんが残したものは、とりわけ大きい。しかし遺族は、また親しき友や同僚は、故人の去ったあと、深く悲しみながらも、あわただしく走り回らねばならない。死は存外忙しい。
正午すぎ、小島先生のご出棺を待つ間、一瞬の静寂が訪れた。みな無言である。よく晴れた、しかしまだ冷たい空気のなかで、壁にかかった時計が時を刻む、その音だけが大きく響く。故人にとって、時はもう流れないのに。
数日後、小島先生はSFCへ帰ってこられた。晴れ渡った空の下、集まった人々はみなそれぞれの思いを胸にこめ、先生を迎えた。そのあと、お通夜、さらにご葬儀と続いた。告別の辞を述べながら、小島さんがいつものように返事をしてくれないことを、しきりに思った。
それからすぐアメリカへ飛び、いくつか仕事をすませて現地を発つ前の日、ヴァージニア州シャーロッツビルという町まで、車で走った。この町にあるヴァージニア大学は、10年ほど前からときどき講義をしにでかける、なつかしい学校である。高速道路を下りて、州道29号線を2時間ほどひたすら走る。道はゆるやかな丘を登っては下り、林を抜け、牧場を横切り、小川を越えて、南西の方角へ続く。丘の頂きに達すると、はるかにブルーリッジ・マウンテンの山並が見える。文字通り青い稜線がくっきりと空を限って、美しい。道端の柳はかすかに黄緑色の葉を出し、木々の芽がほんのり赤く見える。牧場の草も、色づきはじめている。
ヴァージニアの春の気配を目にして、ふとイギリスは16世紀の詩人、ジョン・ダンの詩の一節を思い出した。
No man is an island, entire of itself
every man is a piece of the continent, a part of the main
any man's death diminishes me, because I am involved in mankind
and therefore never send to know for whom the bell tolls
it tolls for thee.
人、島にあらず、島のみにて終らず。大いなる陸(くが)のひとひら、全きものの一部なり。人の死せるは、我が身を削るに等し。我はらからの一人なるがゆえに。されば、誰がために鐘鳴るやと問うなかれ。鐘、汝がために鳴るなり。
小島さんの死は、SFC全体にとっての損失であり、我ら一人一人にとっての喪失であった。しかし冬が過ぎて野に緑が戻り、木々が再び花を咲かせ若葉を見せるように、先生が去ったあとにも、新しい命が生まれ、育つ。生きるのも死ぬのも、私たちは私たちを超える、大きな何かに包まれている。
もうすぐ、4年生諸君は卒業して新しい道を進みはじめる。4月になれば、新入生諸君がやってくる。それを楽しみに、私は故国へ、SFCへ、帰ることにしよう。
復活祭を間近にしたヴァージニアのいなかを車で走りながら、そんなことを思った。
(掲載日:2008/03/27)
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