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2007.04.12

おかしらにとっての福澤諭吉:東亜共栄圏の新実学を|小島朋之(総合政策学部長)

福澤諭吉先生と私の間には、まったく関係はありません。しかし、私個人としては、福澤先生の名前を聞くと、馴染み深い気分で一杯となります。なんといっても、私の母親は福澤先生と同じく中津出身だからです。明治維新前に母方の実家は下級武士で、福澤先生のご実家と同じく、そう豊かではなかったそうです。祖母が95歳で亡くなるまで中津市郊外の養護施設の理事をしており、厳しい人格者でした。しかし、暖かい心も持ち合わせ、私の子供たちも曽祖母に懐いていました。私自身も小学校から高等学校まで博多に在住し、夏休みなど休暇にはよく中津まで行き、国東半島の海で泳いだものです。

私にとって、福澤先生への関心は先生のアジア論にあります。私の研究分野が中国をはじめとした東アジアの地域研究と国際関係にあったからでしょう。先生は『学問のすすめ』(1872-76年)で個人の自由や平等を最優先し、「理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず」と語りました。福澤先生は西洋に学びつつも、西洋の衝撃を克服して国家の独立をめざして、近代アジアを先導するイデオローグの一人でした。征韓論にも台湾出兵にも反対し、中国、朝鮮半島など東アジア諸国との対等な立場での近代化に向けた「協生(共存・協栄)」を模索しました。だからこそ、台湾出兵で最大の利益をあげたのは西洋列強であり、アジアが一体となって警戒すべきは西洋と指摘したのです。だからこそ、金玉均など朝鮮半島の李朝改革派を慶應義塾に受け入れ、積極的にアジアの近代化を支援したのです(北岡伸一『独立自尊』講談社)。

ところが1885年には福澤先生は『脱亜論』を発表し、近代化への大転換をためらう中国や朝鮮半島との協力について、日本は「西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故に特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ」と断念を表明したのです。ここから福澤先生は「アジア処分」あるいは「脱亜入欧」論者として、非難されがちになるのです。

しかし、福澤先生は実は「アジア処分」論者でも、「脱亜入欧」者にも変節したわけでなかったのです。それは、福澤先生ご自身の文章でも裏付けられるのです。日清戦争(1894-95年)で日本が勝利して日本国内に清蔑視の風潮がでたとき、「況んやチャンチャン、豚尾漢など他を罵詈するが如きに於てをや」、「日本人たるものは官民上下に拘はらず、自から支那人に親しむの利益を認め」るべしとの論説を掲載し、中国人との交流強化を強調していたのです。「脱亜」が福澤先生の思想的イメージであるが、それが「協生」を内包する自由と平等の原則を貫く「独立自尊」の文脈に踏みとどまっていたことが、『福澤諭吉全集』という原資料から厳密かつ詳細に比較解析されはじめています(たとえば平山洋『福沢諭吉の真実』<文春新書>)。理論分析も含めて、研究のほとんどは原資料解析という地道な作業が前提になるということでしょう。

日本が盟主となって東アジア共同体を目指したのが日中、日米戦争期の「大東亜共栄圏」でしたが、いまや東アジア諸国が中国を含めて経済発展し、「独立」と「協生」を共有する条件がなお小さいがすでに整いはじめ、「東アジア共同体」の実現に合意した「ASEAN(東南アジア諸国連合の10カ国)+3(北東アジアの日中韓)」サミットで東南アジア(シンガポール)の一部に「東亜共栄圏」実現が肯定的に語られるようになったのです。

東アジアとの「協生」を重視する福澤先生の伝統は、いまなお慶應義塾に受け継がれています。戦中から戦後にかけて塾長を務められた小泉信三先生は、日中戦争期に中国との関係の重要性を認識し、塾内に支那研究所を開設しました。戦後には元塾長の石川忠雄先生を中心に、現代中国研究の拠点として、中国をはじめとした地域研究が日本のアジア研究を先導してきています。私も石川先生の学生でしたが、SFCでは草野厚先生、梅垣理郎先生、重松淳先生、野村享先生、渡辺吉鎔先生、渡邊頼純先生、氷上正先生、田島英一先生や鄭浩瀾先生など、福澤諭吉先生のアジアとの「協生」の伝統を継承しつつ発展させるアジア研究がいま盛りとなって展開されています。SFCでいま始まっている、福澤先生がめざした伝統の「21世紀版東亜研究」の新実学の創発にこそ、皆さんも加わりませんか。

(掲載日:2007/04/12)

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