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2006.07.20

風に吹かれて|佐藤蓉子(看護医療学部長)

いまから50数年前、のんびりと子ども時代を過ごしていた田舎の子ども、しかも女の子がぼんやりと思い描く自分の将来像は可愛いお嫁さんか、学校の先生・・・といったものだった。日本はまだ戦争の痛手から立ち直ろうと頑張っているときで、多くの人は貧しくそれでも暢気で明るかったように思う。社会はその後、急な展開を遂げていくが、私自身は成長してもそのままの雰囲気を持ち続けて成行きで看護師になり、臨床で10年ほどを過ごしていた。ところがあるとき、このままではいけないと目覚め、仕事を辞めて学校に入学する。目覚めたといってもはっきりとした目的があったわけではない。何となくまだ寝ぼけたままの状態で・・・入った学校は、看護教員を養成する学校であった。そして、看護学校の教員になった。

次の転機は、短期大学の教員としてマイペースで過ごしていたときにやってきた。ふと気づくと周囲の友人たちが次々に大学院に進学し始めていた。看護教育も大学化が進んでいくという時代の流れができたからであった。看護大学をつくりたいが、教員になる人が不足しているのでつくるのが難しいという話が伝わってきた。看護教育を(当時の)厚生省管轄の専門学校ではなく、文部省管轄の4年制大学で行うということは、それまでの多くの看護職にとっての強い願いであった。ようやく看護教育にも大学化の風が吹いてきたのに、教員不足のようなことでそれが進まないというのであれば、私も一役買いましょうという乗りで退職して大学院に入った。当時の看護系大学院はそれほど数も多くなく、私のような人、他の学問領域の人々と同様に「普通に」大学を卒業して「普通に」大学院に入ってきた若い人たちなど、いろいろな経歴をもち、年齢も多様な人々が集まって面白い集団をつくっていた。私が所属した領域では3人の同期の院生の年齢差がそれぞれ10歳というものであった。当然私は最長老で、それなりに遇されていた。すなわち、“あの人のことは大目に見るより仕方がない、歳なんだから”。このように周囲に早々と諦めてもらって研究科修士課程を修了し、大学の教員になった。

それ以来十余年、大学教員として勤めているが、看護系大学の増加は急で、現在でも教員不足は続いている。

(掲載日:2006/07/20)

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