いつものように曖昧な記憶でしかないのだが、東京オリンピックのとき、バスケットの決勝?で、アメリカはソ連と対決した。ソ連には超大型センターがいて、いかにも強いぞ、という雰囲気だった。しかし試合が始まると、アメリカの強さは圧倒的だった。とくにポイントガードの10番?が、ソ連のディフェンスの一瞬の隙をついて、一気にゴール下に超高速パスをなげ、それを受けたフォワードがなんなくゴールしたとき、そこに、バスケットの本質をみた。バスケットはどんなスポーツよりも「かっこいい」と確信した。それは、僕がさらに6年前の中学1年生のとき、「バスケをやるんだ」と意気込んだ気持ちに間違いはなかった、と実感した時でもあった。しかし僕のバスケの歴史はその1年間で終わってしまった。1959年、僕は挫折したわけだ。
2004年12月4日。インカレで、日本大学と準決勝。最初は楽勝を思われるほどの点差をつけて、慶應は順調であった。しかし第4クォーターであっという間に追いつかれ、試合の流れからして、負けるかなと思わせるほど、嫌な展開だった。が、そこから驚異的な粘りをみせ、最後は82-79で勝利した。しかしこういう展開はとっても疲れるものだ。明日が心配だ、と心は早くも決勝戦の行方に飛んでいった。僕の気分なんて、いい加減なものだ。
そして5日、決勝戦。相手は専修大学。いかにも強そう。あきらかに体格では、負けている。センターのあの頑丈な体躯をみると、203センチであってもまだ細身の竹内では、高さだけでは勝てない何かを感じた。立ち上がりは、不安がそのまま的中。圧倒的な実力差を感じさせられた10分間だった。なにをやってもうまくいく専修と、すべての歯車が狂ったままの慶應の対照的な展開のなかで、試合は時間を刻んでいった。ハーフタイムでの12点差をみて、隣の小島さんと顔を見合わせ、言ってはいけないと分かっていても、「だめかな」とつい口走ってしまった。
しかし後半になると、ハーフタイムのロッカールームでの佐々木ヘッドコーチの作戦指示なのかあるいは怒りのせいなのか、鋭利な身体性に目覚めた5人の知的な振る舞いのなかに、慶應の実力が走り出した。その身体知は、観衆のなかにざわめきをもたらし、みんなは腰を浮かせながら、応援の声を一気に高めていった。第4クォーターでついに追いつき、さらに差をつけようとしたチャンスに、志村のレイアップがリンクに嫌われそうになった。みんな、心の中で悲鳴をあげ、祈った。ボールは、みんなをじらすように、リンクの周りをクルクルと回り、しかし最後はネットに吸い込まれた。その瞬間、志村が示した照れ笑いには、勝ちを確信する何かがあったのだろう、それは自然に、彼の逞しい腕の筋肉を盛り上げていた。運はあきらかに、慶應に不公平なまでに味方していた。
そして、最後の残り2秒、センターの竹内が、フリースローをする前、一瞬のぞかせた微かな笑顔には、この1年間の弛まぬ努力への褒美だったのだろう、勝負を超えた安らぎが滲んでいた。きちんとゴールを決めて、慶應の優勝が確定した。77-72であった。その瞬間、代々木体育館全体を揺るがすように、慶應の狂喜は頂点に達した。石田剛規、辻内伸也、志村雄彦、竹内公輔、酒井泰滋をはじめ、部員全員の力で、慶應は45年ぶりの学生日本一になった。こんなに感動したことは、本当に久しぶりだった。同時に、勝利を信じることができず、すぐに「だめかな」と思ってしまう自分に、45年前の挫折がなにもいかされておらず、やはり僕にはスポーツを語る資格はないな、とつくづく思った。でも、そんな反省もすぐに忘れて、代々木体育館を出て、小島さんと別れて、ひとり渋谷の駅に向かってゆっくり歩いているときに、心は一気に走っていた、ドリブル、パス、シュート、ゴール、気分はバスケットプレイヤーだった。
この日記を書いているとき、田臥がサンズを解雇されたニュースが飛び込んできた。がんばれ、田臥、がんばれ、すべてのバスケットプレイヤー。コートにたつプレイヤーの使命は、見る者が仮託するさまざまな思いこたえることであり、それは単にゲームに勝つことを超越するなにかを、プレイヤーにもたらすのだ。だから、がんばれ。また、ちょっとえらそうな顔をしてしまった。
(掲載日:2004/12/24)
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