2004年8月21日、オープンキャンパス。高校生たちがたくさん集まり、SFCへの期待が十分にあるぞ、と確認。やれやれ、よかった。かれらにSFCをアピールしながら、話はオリンピックに流れていった。日本がこんなに頑張ったのは、ちょうど40年前の東京オリンピックのとき以来で、そのとき、僕は、いまここにいる高校生と同じ年齢だった。
1964年、僕も、まあ人並みに受験戦争の最中で、もがいていた。しかし10月10日から2週間のオリンピックだけは受験という戦争も休戦協定が暗黙のうちに締結され、受験生も日本人であることの喜びに浸っていた。日本人という本物の感触がえられた最後が、1964年10月の出来事だった。
アテネで、日本中の誰でもが、一番金メダルに近いと確信していた井上康生が、あっけなく敗退した。誰もが、自分の目と耳を疑った。にもかかわらず、負けたという事実が変わることはなかった。代わりに、鈴木桂治が勝って、国民のみなさんへの一言、という馬鹿なインタビュアーの問いに返した、「イェー」という声と画面の隅っこに写ったVサインは、すべてを救った。これでいいのだ。国家を背負うことの厳しさと辛さに、負けたからといって、何もいえないし、誰も責めることはできない。だから、親が子供に代わって土下座したことが、許せない。親なんか関係ないし、すべては自分の問題だし、自分の世界のことなのだ。
40年前、代々木のオリンピックスタジアムに、マラソンの円谷幸吉が2位で戻ってきた。しかし後ろを絶対に振り向かない彼は、最後にヒートリーに抜かれて3位になった。それでも、銅メダルは円谷の人生最高の勲章であったはずなのに、かれは、次のメキシコで金メダルを父親と社会に強く期待され、だから頑張り、しかし頑張りきれず、最期は親に侘びる遺書を残して自殺した。そんな時代だった。沢木耕太郎は、「長距離ランナーの遺書」という傑作を書いた。
8月23日深夜、アテネのスタジアムに、野口みずきがトップで入ったとき、観衆にむけて手を振っていた。おいおい、そんな場合か、ヌデレバがすぐ後ろにいるぞ、もっと真剣に全力で走れ、と思ったのは、円谷の悲劇を知っている世代だけなのだろう。野口に、その一瞬、円谷の影が重なった。しかし、40年後の野口は、そんな世代の不安を無視するように、逞しく勝った。えらいものだ。
傑作を含んだ本は『敗れざる者たち』で、その中には、長嶋茂雄がルーキーとして巨人に入団したとき、いかに天才であったか、を記したノンフィクションも含まれているはずだ。その長嶋ジャパンは、やっと銅メダルがとれた。まあいいか、という気分になった。
(掲載日:2004/09/02)
→アーカイブ