MENU
Magazine
2014.08.08

煮詰まらない議論|河添 健(総合政策学部長)

10m先を歩く友人に「後ろにいるぞ」とスマホで知らせる。待ち合わせや予約はライブ感覚で更新が可能。常にツイッターで仲間を意識し、ときには炎上を期待する。ツールの進化とコミュニケーションの変化の関係を探る上では面白い時代になったものだが、単なるコミュニケーションの変化では済まされない怖さを感じる。
 先日も都議会議員の不謹慎な発言が、ツイッター上で話題になり、その後、マスコミ報道が追従した。結果として関連議員が謝罪するなど良い結末となったのもツイッターの威力である。でも何故、議長はすぐに発言を制しなかったのか、都議会に張り付くマスコミは何故、すぐに問題を発信しなかったのか、背景にある種の機能の低下を感じる。
 原発行政や集団的自衛権など日本の将来を大きく左右する問題に対して、我々は判断を迫られている。残念なのは口角泡を飛ばす激しい議論をあまり見かけないことである。歴史に残る政治決定がこんなプロセスでよいのか、先生方の白熱教室を期待したい。もしこれらの問題が私の学生時代に起きていれば、タテカン(立て看板)が並び、デモや授業と試験のボイコット・・・全共闘運動へと拡大する。私は理系の学生なので、少々冷ややかな見方をするが、それでも頑張っているな、は感じる。ところが今はどうかといえば、まったくの無風状態である。
さて、話を最初に戻すが、冒頭の怖さはこの無関心さである。学生に限ったことではなく、大きな無関心層の存在である。昔の学生運動はまさに体を張っていた。情報は体を張って取りに行き、体をはって主張した。口角泡を飛ばし議論をする。そしてそれらをマスコミが報道し、我々は新聞やテレビを食い入るように見る。ところが今は様相が違う。ツールの進化にともない事件は瞬く間に動画配信され、多くのコメントが集約される。ネット上には情報があふれ、そしてツイッターで叩かれれば一貫の終わり。泡を飛ばす議論の前に結末が予想できる時代なのである。 逆にこれらの情報を民意として利用しない方法はない。一見賢いようだが、これでは本末転倒である。民意の集約は機械でもできるのであって、恐れることなく議論することこそ、我々に課せられた使命である。コミュニケーションの変化にとどまらず、この機能が低下することをもっとも怖れる。議論を避けて無関心となる者の中には、ネットやツイッターなどでの盛んな議論を知り、とくに参加する必要がないと感じている者もいるのかも知れない。あるいはこれだけデータが分析され情報が開示されている世界に安心感を抱いているのではないだろうか。しかしすべてが故意の操作が可能である。自ら考え、自ら主張しなくては個人の存在の意味すら危うい。
人気のある者が偉い、役立つものが良い、なんて世の中にはなって欲しくない。その意味では数学者が学部長になっているSFCは健全なのかも知れない。
(掲載日:2014/08/08