SFCの歌はもう歌わない
慶應を辞めて他の大学へ移る。SFCを去って京都へ行く。周囲の人にそう告げたら、予想以上に驚かれた。確かにまだ定年ではないし、少々唐突だったかもしれない。ひどくあっさりと辞めるなあ。そう思われたかもしれない。
慶應義塾の教員は、定年がくると実に名残惜しそうに去っていく。この学校には学部からずっと慶應という人が多い。中には幼稚舎入学から定年まで約60年の間、慶應しか知らない人もいる。塾は彼らの青春であり、壮年であった。人生の喜びも苦しみも、成功も失敗も、すべてこの学校と結びついている。その慶應を去るのだから、よほど名残惜しいのだろう。
私には、そうした強い感慨はない。慶應、SFC、どちらも好きだけれど、別に恋人でも愛人でもない。配偶者は別にいる。「学問のすゝめ」を説いた福澤先生だって、同時に「学問に凝るなかれ」と言ったではないか。慶應に凝るなかれ。SFCに凝るなかれ。
若いころから私は、少し遠いところから他の人を眺めていた。人と接するのが苦手だった。だから港へでかけて客船の解纜を見たり、奈良や京都を歩いたり、一人でいることが多かった。童話から始まって、古代文明の発掘記、歴史物語など、本の世界に遊んで現実を忘れた。
ところがそう告げると意外だと言われる。とても社交的ですよねと反論される。確かに人とはすぐ打ち解けて話すし、冗談ばかり言っている。実はそうなったのは塾高に進んでからである。いかにも都会的な周囲の友人の影響が大きい。慶應は私の性格をずいぶん変えた。けれども友人や同僚ができて関係が濃密になると、少し息苦しくなる。居心地のよさから、なぜか抜け出したくなる。
私は塾法学部を中退している。いろいろ事情があって、必ずしも自分の意思ではなかった。アメリカの大学へ留学中で、慶應の仲間がなつかしくて仕方なく、母校と縁が切れるのはとても寂しかったけれど、同時に何かが吹っ切れた。自立した個人の多いアメリカに一人でいることは、私を強くした。
その後、就職した会社は10年、ロイヤーとして働いたアメリカの法律事務所もほぼ10年で辞めた。仕事に不満があったわけではない。それぞれすばらしい経験をさせてもらった。ただ、一つ区切りをつけて、新しい環境に身を置きたかった。辞めて失ったものはあったはずだが、新しく得たものも多かった。妙にすがすがしくもあった。そんなこんなで10年に一度辞めるのは、悪くなかった。
その後慶應SFCへ移って17年。今回ばかりはいささか長くなった。そのうち3年間は外務省に出向していたから、その分を差し引くと14年。学部長2年、常任理事4年のあいだ教育や研究が十分できなかったから、正味おおよそ10年くらいだろうか。10年サイクルで考えれば、辞め時だ。
誤解のないように言うけれど、SFCの日々は楽しく充実していた。このキャンパスには思い出がつまっている。授業の思い出、ゼミの思い出。移り変わる四季の思い出、上空を飛ぶ戦闘機や哨戒機の思い出。そもそもSFCは慶應を中退した私に教えるチャンスを与えてくれた。当時の小島学部長は外務省への出向を許した。学生諸君は授業につきあってくれた。同僚たちは私の好き勝手な発言や行政に耐えた。私は慶應にSFCに恩がある。だから学部長と常任理事を引き受け、在任中はそれなりに働いた。
今でも続くSFCホームページ「おかしら日記」の欄に、学部長に就任してから常任理事を退くまでの約6年間、エッセーを書いた。他の執筆者がSFCでの授業や研究について記しているのに、私はごく日常的な風景、旅に出たときの感慨、飛行機や船など、仕事に直接関係のないことばかり書いている。「おかしら日記」の文章を書くのには毎日の仕事からいっとき離れ、自分自身の気持ちをリフレッシュさせる意味があった。それでも読み返してみると、いやだ、疲れた、とつぶやきながら、けっこうまじめに慶應のことSFCのことを考えている。
実際、SFCでどのような教育をすべきか、学生諸君に何を伝えるべきか、当時は私なりに考えた。SFC創設を発表し「自分の頭で考える人を育てる」と喝破した石川忠雄塾長の演説や、「諸君はミネルヴァのふくろうである」と愛情を込めてSFCの卒業生に呼びかけた加藤寛初代総合政策学部長のスピーチを、録画で何回も見て聴いた。福澤諭吉のさまざまな著作を改めて読み返しもした。私自身、SFC のあり方について、慶應の理念について、方々で語り文章に表した。しかしそれはもう、今は昔。旧約聖書『コヘレトの言葉』にあるように、「すべてのことに時があり、天が下すべての行いに季節がある」。SFCでの私の時と季節はすでに去った。
常任理事を退いたとき、SFC執行部のみなさんがこじんまりしたご苦労さん会を開いてくれた。その席で村井さんが私に、SFCの歌を書けといった。慶應の歌は数多くあるけれど、SFCには歌がない。それをつくってSFC25周年の式典で発表しようよと。私はそれを真に受けて、生まれて初めてまとまった詩を書いた。SFC に歌がないだけではない。かつて語られた物語が語られなくなっている。そんな気持ちをこめて書いた。だれかが曲をつけてくれたらいいなと思ったけれど、いろいろな事情があって25周年の節目では発表されなかった。
この詩で私は、SFCについての思いをことばにした。歌われることのなかったこの歌詞を、丘を去るにあたって残して行こうと思う。歌を歌い、物語を紡ぐのは、SFCに残るみなさんに託して。
1.
丘に 登ろう
緩やかな 坂を
いただきの 広場に向けて
まっすぐに 登ろう
この丘で 森を開き
我より 古(いにしえ)を 刻まんと
学舎(まなびや)を 建てた
人がいた
そして若者は 未来から やってきた
何も恐れず 頭(こうべ)を上げ
一歩ずつ 土を踏み
知の力を 求めて
やってきた
だから
君も登ろう
友の待つ
遠藤の丘に 登ろう
ふくろうは
まだ
眠っているのだろうか
2.
丘に立とう
飛行機が 空をよぎる
見晴らしのよい
広場に立とう
この丘で
問うべき 問いを
答えるべき 答えを
探そうと 呼びかける
人がいた
そして若者は いつも未来にいた
たくましく 明るく
池の水で 乾きを満たし
空を見上げ
知の力を 身につけた
だから
君も 立とう
友の集う
慶應の丘に 立とう
ふくろうは
いま
夢を見ているのだろうか
3.
丘を 越えよう
高き 山を
広き 海原を
めざそう
この丘で いくたびか
花は咲き 葉が落ち
歳月(としつき)を重ね 去った
人がいた
そして若者は 未来へ羽ばたいた
宇宙の深さに 命のはかなさに
おののきながら ひるまず
知の力を信じて 羽ばたいた
だから
君も 旅に出よう
友を想い
SFCの丘を 越えて
ふくろうは
もう
目を覚ましただろうか