「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」という言葉は、医療のあらゆる場面で多用され、私自身もよく使っていたように思います。患者さんを自律した存在として、意思決定支援を行うことは、看護としては自明の理と考えているところがありました。過去形で述べているのは、ある本により、自問することが多かったからです。
話題になっていたので、読まれた方も多いかもしれませんが、「急に具合が悪くなる(晶文社2019)」を年末年始にかけて繰り返し読みました。帯に書かれているように、「がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者」の20通の往復書簡です。初回読書時の衝撃も大きかったのですが、読み返す度に、様々なフレーズに私の胸はドキドキしてしまいました。
その中のひとつ、「ご自身がよいと思うように決めてください」と尊重される「患者さんの意思」。その記述に続く、「選ぶの大変、決めるの疲れる」という哲学者の言葉は、グッと迫ってくるものがありました。もちろん、臨床現場の中で、医師がエビデンスに基づく選択肢の提示をするインフォームドコンセント(チョイス)の場面で、その情報(治癒確率、生存率など)だけでは決められないだろうなと感じることはいくらでもありました。だからこそ看護師としては患者さんが知りたいことは何なのかを注視し、より具体的なイメージが持てるような状態あるいは生活の見通しの説明、提供できるサポートを提示してきていました。その上で焦らず決定していただけるように声掛けもしてきました。でも、著者である哲学者は医師だけではなく、多職種から「正しい情報」が与えられ、リスクとベネフィットを天秤にかけ、「適切」に自分で「決める」ことを繰り返しやってきた末に、前述の「選ぶの大変、決めるの疲れる」と。そして、合理的に選ぶのではなく、病院や医療者の雰囲気になじむような状態で決まっていくことで、クタクタに疲れ果てた状況から解き放たれていったのです。選択の在り方としては、問題解決型思考から、より感覚的な情動型の対処へと変化していったと解釈はできるのでしょう。
患者自身が自己決定に価値を置き、そのように行動してきたから、それを尊重しようとする医療者がそのことに応えるように情報提供がなされていたのでしょう。良き患者として、情報を基に自己決定することへの価値に縛られ、その末に追い詰められた思い。支援に囲まれた孤独な思いにも見えました。
これまで、その思いに気づき、寄り添うことはできていたのだろうか、医療者側の価値観でさらに追い詰めることはなかっただろうかと。支える「支援」ではなく、共に彷徨ったとしても寄り添うことができる、そんなケアができるような感性を養っていきたいと強く思いました。
PS.前回登場した蛹は、年末に無事羽化し、ひらひらとモンシロチョウが舞う新春を迎えることができました。