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2020.03.17

いつもとちがう|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊

激しくぶつかる音、巨体が土俵に打ちつけられる衝撃、行司の声。ふだんは歓声にかき消されているさまざまな音が、がらんとした競技場に響いている。今年の大相撲三月場所は、無観客で開催されている。本場所が観客なしで開かれるのは、75年ぶりとのことだ。観客がいないなかで土俵入りがおこなわれ、取り組みがはじまった。なんとも不思議な光景だった。なぜか、いつもとちがう緊張感をもってテレビの画面に向き合ってしまう。少し大げさに言えば、まったくあたらしい競技を眺めているような気分にさえなる。
土俵だけが、くっきりと見えて、一つひとつの所作に目が向く。それぞれの場面に儀礼的な意味があること、その都度、力士たちの心が動いていること。それほどの相撲好きでもないし、大相撲はテレビでしか観たことがないが、勝手に想像をめぐらせる。いつもは見えなくなっている(見ていない)ものが、見えるようになった。

幸いなことに、この時期は講義がないので、教室での「濃厚接触」を心配しなくていい。何人かとメッセージをやりとりしたら、さほど変わらず旅行やアルバイトにいそしんでいる学生はいるものの、自粛要請を受けとめて静かな毎日を過ごしている学生が多いようだ。こんなときこそ、本を読んだり文章を書いたりするのがよいと思うのだが、落ち着かない気分になっていることはまちがいない。そもそも、この季節。ちょうど、春を感じながら(重いコートを脱いで)出かけたい時分なのだ。
「おかしら」的な仕事のほうは、いくつかの会議が遠隔での参加を認めるかたちでおこなわれている。この機会に設定や段取りに慣れて、もっと上手に遠隔会議を開けるようになるはずだ。顔が見えていればいいのだが、音声だけだと少し戸惑う。つながっていることは確認しながらも、相づちなのかスルーなのかわからない(もしかすると、つないだまま席を離れているのかもしれない)。だがこれも、コツをつかめばなんとかなりそうだ。チャットで補足したり、絵文字やスタンプを使ったりして気配を届けるやり方は、すでに多少なりとも身についているからだ。コミュニケーションへの欲求があれば、おのずと創意くふうがはじまる。

大相撲にかぎらず、スポーツもコンサートも演劇も、学会やシンポジウムの類いまで、さまざまな「大規模イベント」が中止や延期、あるいはいつもとちがう開催になって、気分は落ち込みがちだ。まちも、なんだか寂しい。ついに、卒業式は中止になってしまった。
無観客の大相撲を眺めながら、学生が一人もいない教室で講義をおこなっているじぶんの姿を想像した。教室に入り、前方まで歩き、PCをつなぐ。スライドを投影して、講義をはじめる。ふだん「おはようございます」などと言っているだろうか。それとも、いきなりしゃべりはじめるのか。姿勢はどうだろう。座ったままで話すことが多いかもしれない。身支度は整っているだろうか。あまりにも慣れすぎてしまった一連の動作を、順番に辿ってみる。惰性や弛みはないか、点検をすすめる。

あらためて、大切なことに気づいた。それは、学生たちは観客ではないということだ。学生たちは、離れたところから講義を眺めているだけの存在にはなりえないのだ。たとえオンラインで講義をすることになったとしても、きちんと「仕切り」をしてから向き合わなくてはならない。ぶつかり合う実感。ぼくたちには、つねに「取り組み」が必要だ。
一週間前、成績発表・卒業判定があった。キャンパスは、閑散としている。卒業式が中止になったので、それぞれのキャンパスには「祝卒業」の立て看板が設置された。卒業してゆく学生たちとは、教室で幾度となく勉強という「取り組み」のために向き合ってきた仲だ。学生がいなければ、はじまらない。学生がいるから、「結び」のときが訪れる。今年の春は、いつもとちがう。

加藤 文俊 大学院政策・メディア研究科委員長/環境情報学部教授 教員プロフィール