アバターを準備することができなかった。ぼくは、あの無味乾燥なロボットを纏って、大階段の前に立っていた。どうやら参加者が一定数を越えると、"ゴースト"になってしまうようだ。不自由なく動けるが、こうしてぼくがキャンパスにいることに、誰も気づいてくれないのだろうか。
まずは、まっすぐ階段を上ってすすみ、メインステージを眺めた。それからぐるっとひととおりキャンパスを巡る。なかなかいい感じだ。"ゴースト"なのは残念だが、徐々に気分が上がってきた。きょうは、年に一度の七夕祭なのだ。
通算で6年くらい(もっと長いだろうか)、学生生活委員会(SL委員会)のメンバーとして仕事をした。じつは、その役目から眺める七夕祭は、楽しいことばかりではない。実行委員会の学生たちと、準備の段階からあれこれとやりとりする。全体の構成、安全・衛生対策、キャンパスの利用、出展者への連絡などなど。学生たちが主体となってすべてを計画し、実行しなければならない。準備の遅れ、段取りの甘さ、連絡の不行き届き。いつものように、ハプニングは続出する。もちろん対立する必要はないのだが、ちょっとばかり注意をしたくなる。ときには、厳しいことばをかける。だが結局のところ、教職員は学生たちを見守り、支えようとする。教室にかぎることなく、キャンパス全体を使って、いろいろなことを学ぶ。そんな空気が、ここには流れている。
七夕祭の晩、学生生活委員会のメンバーは、いくつかの班に分かれてキャンパスの巡回をおこなう。模擬店の火器の扱いはだいじょうぶか、不審なモノが置き去りにされていないか。大学の教員が、そんな「夜回り」の仕事までするのかと、家族には苦笑される。だが、腕章をつけて、懐中電灯を片手に撤収間近の七夕祭を歩くのも、悪くない。
アナウンスがあると、いそいそと片づけがはじまる。花火が打ち上がる前に、撤収をすすめるのだ。ぼくたちも、無事に片づけがはじまっていることを確かめてから、花火を待つ。準備から当日にいたるまでの苦労は、花火とともに散る。それは、「終わり」の合図だ。
まだしばらく時間がある。ぼくは、教室に入ってみた。なかには見慣れた机が並び、窓の外には短冊が提がった七夕飾りが見える。なるほど、よくできている。教室に入ったとたんに、アイコンが頭上に表示されて、"ゴースト"ではなくなった。ちいさなアイコンが頭上に表示されるだけで、じぶんの身体を取り戻すことができたような、不思議な感覚をおぼえる。これで、気づいてもらえる。
教室にいた新入生たちと、少しことばを交わした。ここでは音声で会話できるはずだったが、上手くいかず、テキストでやりとりした。アバターどうしなら、もっと近づいてもよさそうなのに、バーチャルな教室のなかでも、ぼくたちはお互いの距離を意識しながら立っていた。
「先生たちは、ふだんはどこにいるんですか」と聞かれた。そんな「常識」とも呼べそうなことを質問されて、ちょっと戸惑いもあったが、多くの新入生にとって、このキャンパスを身体で理解するのは難しいことなのだ。一つひとつの授業はオンラインで成り立っているが、そもそも、みんなでキャンパスを共有している感覚はない。入学してから、キャンパスを歩き回るのが初めてに近い状況なのだから、建物の配置や構造などから紹介する必要があることに、あらためて気づいた。
いま、通学時間や昼休み、放課後を過ごすといった体験がそぎ落とされている。ふだんなら、キャンパスを歩いていれば、誰かに出くわすこともある。ちょっと立ち話をする。授業のこと、キャンパスのことなど、学生生活を豊かにする知恵や工夫は、友だちとの雑談やおしゃべりのなかで身についてゆく。いまは、誰かと出会うことさえ、ままならないのだ。
花火の時間が近づいてきたので、おしゃべりを切り上げて、部屋を出た。いつも、鴨池を臨む場所が人気だ。すでに、たくさんのアバターたちが集まっていた。花火が上がる直前、ほんの一瞬だけ、みんなが息を合わせているかのように静かになる。ほどなく、BGMとともに花火が打ち上がった。これは、たしかに花火だ。夜をつつむ空気も、人びとの息づかいも、背中を流れる汗も、あるはずの感覚が足りない。でも、今年もキャンパスで花火を眺めることができた。
前のほうに、法被を着た実行委員会のメンバーらしき姿が見えた。労いのことばでもかけようかと思ったが、ぼくはふたたび"ゴースト"になっていた。頭上で乾いた音が響く。ぼくは、誰にも気づかれることなく、夏の夜空を見上げていた。