急増するCOVID-19感染者数とは裏腹に穏やかな晴天が続く冬休み。さまざまなスポーツイベントのテレビ観戦とともに、積んであった本の中から、一番に、西浦博さんの「新型コロナからいのちを守れ!」(中央公論新社)を手に取る。
日本では希有な存在である感染症疫学の数理モデルの遣い手として、その真っ直ぐな性格そのままにこのパンデミックのコントロールに全精力を注いで真摯に向き合い、8割おじさんとして広く社会に知られるようにまでなった西浦さんは、専門家としての実力と良心を見事に発揮したと評価されるべきであるが、それゆえ、日本的な、サイエンス、政治、社会との役割分担や責任の所在の曖昧さに苦しめられもした。3密という語の誕生秘話といった裏話などとともに、その西浦さんのほんとうの姿と思いがよく伝わってきて、あっという間に読み終えた。読後には、公衆衛生の専門家仲間として、彼と対策チームのメンバーたちを誇らしくも思った。
その中で、とくに後半部分を通して浮かび上がっているのが、こうした急な健康リスクに直面した際の科学コミュニケーションのあり方が問われているということだ。西浦さんは、従来行われてきたような、国がパターナリスティックに政策を決定して地方が従うやり方では、急激に感染が爆発するパンデミックには対処できないと見切り、現実のデータと数理モデルによって流行を科学的に予測して提示し、そのリスク認識の下に社会としての政策を決定することを目指し、単に予測をすることを踏み越えて行動した。
このアプローチは、日本でどこまで受け入れられるのだろうか。8割おじさんの発信に対する社会の反応は、とくにメディアやSNS上では、本当にさまざまであった。予防されコントロールされた故に顕在化しなかったリスクは、ほとんどの場合正しく認識されず、時には、過剰にリスクを煽ったとして後日の非難の対象にさえなるのだ。彼自身がこの本の中で振り返っているように、もう少しうまい身のこなし方もあったであろう。サイエンス側として一線を越えるべきではなかったという考え方もあろう。しかし、あの4月の段階で、西浦さんと周囲の専門家たちが「リスク・インフォームド・ディシジョン」と呼ぶ活動を戦略的かつ果敢に行ったからこそ、日本の第一波は世界も驚くほど小さい波でコントロールされたことを過小評価してはならない。
みたび、そしてこれまでにない規模でのCOVID-19感染の急速な拡大が起こるいま、今度こそ日本はリスク・インフォームド・ディシジョンができるのか。このことが問われている。