話が長いとか、短いとか。そんなものは、人それぞれだ。ぼくのような「おじさん」こそが、説教じみた話を長々としないように気をつけなければならないはずだ。もとより、長い短いは、誰とどこで何を話すのかによって大きく変わる。コミュニケーションの現場は、複雑で起伏に富んでいるのだ。だから、丁寧に時間をかけるべきこともあれば、「ざっくりと」話しておけばよいこともある。
とにかく、ぼくたちはたくさん会議をする。立場上、そういうものだと理解しながらも、朝から晩まで、ずっと会議のまま暮れてゆく日もある。そして、なぜか会議は特別な時間だと思い込んでいる。「会議があるから」と言えば、いろいろなことが許されてしまうような雰囲気さえあるから不思議だ。「おかしら」の一人として役目を担うようになってから、議事進行をする機会も増えた。
月に一度のペースで開かれる大学院の会議は、いつもだいたい90名程度の出席だろうか。毎回、会議に先立って事前の打ち合わせをする。議長であるぼくと、補佐をお願いしている先生、そして学事担当のスタッフと一緒に全体の流れを確認し、想定される質問への応えを準備する。いわゆる「落としどころ」についても相談しておく。そして当日。決められた時刻になると、電子音とともに先生がたが「会議室」に入ってくる。多くがビデオをオフにしているので、目の前には名前や顔写真がタイル状に並んでゆく。定則数を確認して、会議がはじまる。ぼくは、あらかじめ準備してあった議事次第に沿って、一つひとつすすめる。
なにしろ、学際的・複合的なアプローチを標榜している大学院なのだ。同じ議題であっても、一人ひとりの教員のリアクションがちがうのは、当然のことなのだろう。急がず丁寧にやろうとすると「そんなことは、もう思い切って決めてしまえばいい」と言われ、ぼく自身に親しみのある判断基準で決めようとすると「それでは不十分だ」とツッコミが入る。スピーカーから声が流れるかと思えば、チャット欄にもテキストが躍る。
会議って、いったい何だろう。会議というのは、どれほど周到に準備をしていても、本番になると予期せぬことが起きる。リアルな議場なら、顔色をうかがうことができたり、部屋を満たす雰囲気がヒントになったりするものだ。学事担当のスタッフに目で合図を送り、頷きを返してもらう。あるいは、後ろからそっとメモが差し入れられることもあるだろう。いまはSlackが、インカムのようなはたらきをしている。手もとには議事進行用のメモ、目の前には会議システムの画面、そしてもう一台のPCでSlackを追う。予想外のところで進行が滞り、紛糾することもある。ぎこちない「間」も生まれる。たまに早く終わることもあるが、みなさんからいただいている時間を(ときに大幅に)超過してしまう。そろそろ切り上げよう、これは一度引き取ろうか、次回に回してもだいじょうぶな議題はどれか。議事進行をしながら、Slackの情報を注視する。そんなやり方にも慣れてきた。
会議の終了を告げると、画面の明滅とともにタイル状の名前や画像が消えてゆく。あらかじめ申し合わせをしていたわけでもないのに、補佐の先生と学事担当のスタッフだけが「会議室」に居残っていることがあった。そこで、議論の流れをふり返る。終わるとぐったりとしてしまう。
もちろん、改善すべきところはある。でもなにより、いつも会議の裏側で忙しく動いているみなさんには、感謝の気持ちしかない。昨年の3月あたりから会議は原則としてオンライン開催に変わったので、リアルな議場での進行に慣れる暇もなく、画面越しの会議に向き合っている。
会議には、儀礼的な意味もあると思う。だが、顔色をうかがい忖度し、多くの「参加者」が沈黙しているだけの会議は、やり方を変えたほうがいい。話が長くなるのはなぜか。それは、「慣例にしたがって」進行する会議そのものへの意見ではないのか。会議のあり方をつくってきたのは誰か。物事の決め方はどのように維持されてきたのか。本質的な問い、変革への欲求は「ざっくりと」話せるはずもない。誰もが誠実に、長い話のために時間を出し合わなければならない。