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2021.06.22

大学は誰のものか?|環境情報学部長 脇田 玲

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今週からオンキャンパスの授業が再開した。鴨池の前で一人静かに本を読む学生もいれば、ラウンジで談笑する学生もいる。皆、楽しそうだ。ついつい、通り過ぎる学生と挨拶してしまう自分に気がついた。モニターを介したコミュケーションで欠乏した何かを全身体で補っているのかもしれない。学生も明るい声で挨拶してくれて、ここ数ヶ月で心にこびりついた暗いものが少しだけとれた気がした。

さらにキャンパスをうろうろして、何名かの教職員を捕まえて、束の間の雑談を楽しんだ(中には迷惑そうな方もいらっしゃいましたが)。誰もがこの空間を可能な限り心地よく過ごしやすいものにしようと心がけている、そんな印象を受けた。目的をもたないインフォーマルな対話やおしゃべりが社会を形成する上でとても大切なことを改めて感じた。

生協、タブリエ、サブウェイを運営されている方々も学生の帰りを心待ちにしている様子だ。私がうろうろした時間は午前だったので、まだひとけが少なく感じられたが、お昼時になると授業を終えた学生が教室から出てくるのが見えた。時間はかかると思うが、キャンパス内のマーケットも少しずつ活気を取り戻してくれると思う。

近江商人は「三方よし」を大事にしたそうだ。商売において大切なことは、商店も、お客も、そして社会も満足することが大切だと考えたのだ。大学においても「三方よし」が大切なことは言うまでもなく、学生よし、教職員よし、社会よしを常に意識したいものだ。御上の方ばかり向いて、大切なものを見失ってはならない。

御上といえば、非常事態宣言の解除が報じられ、少しだけ生活に潤いが戻ってきた。まさか灯火管制や禁酒がこの時代が訪れるとは思ってもいなかったが、マンボウのもとではお酒は2人以内の入店で90分以内に済ませなさいとの要請がでたそうで、、、とほほ、だね。都市を構成するのは間違いなく市民なのだが、一方で都市を自由にできるのは権力者だけだということが、この1年間で改めて可視化された。

都市と市民の文脈についてはさまざまな活動があるのだが、現代美術の世界では、ストリートアートが注目を集めている。ヒップホップカルチャーとの関連を踏まえると実はずいぶん前から活動は存在しているが、国内で注目されるようになったのは、都内の水門でバンクシーのステンシルが見つかり、都知事がツイートした一件があってからだろう。一方で、なぜ世界でストリートアートが注目されるようになったかといえば、そこには「都市は誰のものか?」という深い問いがあったからだと言われている。

現代において、都市を気随にできるのは国や地方自治体、そして建築業界のディベロッパーだけだ。市民は街に自由に絵を書くこともできず、ベンチを置くこともできず、権力が用意した都市を消費することしか許されていない。そんな中で自分たちの街を取り戻そうとして、グラフィティやミューラルのライターが現れた。多くのストリートアーティストが貧困地区の出身であり、自らの生活を脅かす開発への抵抗として、また唯一残された表現手段として、ストリートで描く行為が広まったのだろう。違法行為だとかゲリラだとか稚拙な批判をすることは容易いが、なぜ彼らがそのような活動に至ったのか、根源を見つめる必要があるだろう。虐げられた者たちを如何に都市設計に参加させるか、それをデザインすることがこれからの都市政策の最大の課題だと思う。

さて、大学は誰のものか。コロナ禍でキャンパスを自由にできる者とできない者が明確に可視化された今だからこそ、改めてこの問いと向き合う時期だろう。学生よし、教職員よし、社会よしを目指さなければ、取り返しのつかない禍根が残る。虐げられた者たちと対話をしなければならないし、彼らをデザインに参加させなければならない。


脇田玲 環境情報学部長/教授 教員プロフィール