この日記も10回目になった。あらためて見返してみると、昨年4月、4回目の日記から、新型コロナウイルス感染症が生活をそして社会を大きく変えていたことにあらためて気づかされる。日記についていえば、公衆衛生の現場の寸描を添えて書こうと思っていたものが、出かけられなくなってしまって1年以上経つのだ。
信濃町キャンパスの周辺では、新国立競技場でのオリパラの準備が否応なく進み始めている。その脇を歩きながら、ポストコロナ社会での公衆衛生のあり方について考えを巡らせる。ワクチン接種一つとっても、時間的にも技術的にも画期的といえるワクチン開発の成功と、「No one is safe until everyone is safe(WHO)」とわかっていても適切に配分できない社会の仕組みという課題が、時を同じくして起こっている。
パンデミックは否応なしに、私たちに、社会に、パラダイムチェンジを迫っている。前例の通じない社会にあっては、最先端の技術とともに、その技術を使いこなしていくことが必要だ。これまでの人類の知の集積からあらたな価値の軸そのものを見出していくこと。大学院の役割はきっとここにもある。
そんなことを考えていると、ふと苅谷剛彦、吉見俊哉の対談にあったフレーズが頭をよぎった。『すごくシンプルに言えば、理系は、ある極限の一点で次に何が起こるかということに対する知の展開であり、微分的な思考と言えます。一方、文系は蓄積された知の中でそれをどうやって使いこなすかということが重要になってくるので、積分的な思考が重要になっていると言えます』(大学はもう死んでいる?トップユニバーシティからの問題提起。集英社新書)。