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2022.03.01

ニュース|政策・メディア研究科委員長 加藤 文俊

なんだか落ち着かなくて、5時半ごろに起きてしまった。3回目を接種したばかりの左腕が重い(それを除けば、副反応はない)。窓の外はぼんやりと明るくなってくる気配だが、月がくっきりと見える。2月はドタバタと過ごしつつも、カーリングから目を離せなくなり、ずっとテレビで観戦していた。じつは、今回の「おかしら日記」も『ナイスぅ〜』というタイトルで書き上げていた。だが、そんな文章を載せる気分ではなくなってしまった。だから、夜明け前にベッドから抜け出して、あたらしく文章を綴っている。

遠い場所で戦争がはじまるというニュースは、じつにもどかしい。戦争にかぎらず、「遠いこと」によるやるせなさのようなものかもしれない。地球規模のネットワーク環境を前提としながら、不断に情報は飛び交う。いっぽうで、結局のところは自分の目の前の日常に向き合い続けていくしかない。気づけば、COVID-19については、夕方に発表される日ごとの感染者数を確認するのが日課になった。つい数日前までは、オリンピックの中継とメダリストたちの「凱旋インタビュー」で彩られていた。それが急変し、メディアはもっと遠い場所のことばかりを伝えるようになった。
ここ数日は、そわそわしていた。テレビをつければ、同僚たちが解説者として出演している。その意味では、自分に近い出来事としてとらえることができるのだが、それでも、やがては「遠いこと」だという現実にぶつかる。すべてが、メディアを介して届けられているのだ。

あのときと似ている。1990年の暮れ、ぼくはアメリカにいて、留学生として2度目の新年を迎えようとしていた。「明るくて前向きなアメリカ」を勝手にイメージして留学したものの、当時のフィラデルフィアは、決して治安がいいとはいえず、エリアによっては本当に怖かった。その後、1990年代は景気回復に向かうのだが、そのちょうど手前。あのころのアメリカは、どんよりとしていたのだと思う。

記憶はあやふやだ。年が明けてまもなく、街の東、デラウェア川の近くを歩いていた光景だけは思い出す。友だちと一緒に食事に出かけたのだろうか。目線の先には、ベンジャミン・フランクリン橋が見えた。少しずつ、戦争に向かってゆく空気は、ぼくにも感じることができた。心から笑うことができないような、重苦しさがあった。そして、1月中旬に「デザートストーム(砂漠の嵐)」作戦が決行された。
「ついに、はじまってしまった」という実感はあったが、アメリカ(本土)の大都市に暮らしながら大学院に通っていると、それはほどなく「遠いこと」になった。授業が忙しくなれば、すぐさま目の前にあるリーディングリストや課題に気持ちを奪われる。大学院生という身分が、いろいろな想いを遮断するのに役立ったのかもしれない。街が大きく変わって見えるわけではなかった。当時は、スマホによって、現場のようすが途切れなく届けられることもなかった。自分が暮らす界隈は「現場」にはなりえず、もっぱらテレビのニュースで見聞きするばかりだ。

1990年代のはじまりは、国々のかたちが変わり、世界の様相が大きなうねりとともに動き出したころだった。ちょうど、大学院ではハーバート・ガンズの『Deciding what's news』という本を読んでいた。いまや「古典」の扱いになるのかもしれないが、他にもコミュニケーション研究の本や論文をたくさん読んだ(読まされた)。同書は、著者がテレビや雑誌づくりの現場で参与観察をおこない、どのように「ニュース」がかたどられるかを考察したものだ。そもそも、誰が何のために「ニュース」を紡ぐのか。メディアにかかわる人びとの価値観や職業意識、さまざまな(政治的な)力学にも洞察をくわえていた。もちろん、スマホ時代の「ニュース」は、スピード感も流通の仕組みも、ガンズが対象にした半世紀前とは大きくことなる。だが、誰かが何かを目論んで、媒体をえらびながら「ニュース」を送出している点は、いまでもそれほど変わっていないはずだ。

ぼくたちは、無関心ではいられない。メディアで知りうる「遠いこと」について、明晰な判断力を持たなければと思う。目の前の日常に、まっすぐに向き合いながら、遠い地の人びとの安全を願う。やがては、心穏やかに朝を迎える日が来ることを祈るしかない。

加藤 文俊 大学院政策・メディア研究科委員長/環境情報学部教授 教員プロフィール