新入生のみなさんは、入学式、キックオフレクチャー、そして履修申告と慌ただしい日々を過ごしているでしょう。これから一月、二月が経過して大学生活が落ち着いてくると、自らの考えを表現する機会が増えてくるでしょう。
その形態は、口頭発表であったり、論文であったり、あるいは作品であったり多様です。その多くは「書くこと」だと思います。論文を書く。みなさんに論文を書くことの意味を考えてほしい。
国際政治学者である高坂正堯(1966)は、「書くこと」について次のように論じています。「『書く』ことは自己の立場を明確にさせ、したがって自己をコミットすることである」。この言葉は、『国際政治』の「まえがき」の冒頭部にあります。高坂はつづけて次のように述べています。
「しかし今、改めて国際政治について一般的に考えてみると、それが私のいままでの議論を原理的に確認することになると同時に、今まであいまいであったところについて、より深く考えさせることにもなった」(高坂正堯, 1966, iii-iv)。
高坂によれば、「書くこと」をつうじて、私たちは頭の中にぼんやりと存在する考えを言語化するのであり、その結果、考えはより明確になり、また自己の立場をはっきりと確認することができるというのです。
明晰な思考は書くことによって生まれるということでしょう。書かなければ、みなさんの学問は深まりません。
学問とは何か。私は、まったくの偶然でしたが、学部生だったときのある書籍との出会いをつうじて、これを考えたことがあります。他学部のあるゼミの入ゼミ課題として講読が課せられていた書籍です。その一文を長いですが引用しておきましょう。
「しかし学問の分野では、学者の仕事は10年後、20年後、50年後には時代遅れになってしまうことは、誰もが知っています。それが学者に共通の運命なのです。そしてこれが学問の仕事の意味そのものですらあります。・・・というのは、学問的に『達成された』仕事というものは、新たな「問い」を提起するものであって、[その問いに答える後の仕事によって]『凌駕され』ることを、時代遅れになることを、望んでいるものなのです」(マックス・ウェーバー 中山元翻訳, 2009, p187)(注)。
この「凌駕されること」、「時代遅れになることを、望んでいる」学問という考え方はとても新鮮でした。当時、独力で同書を読み抜く力がなかった私は、他学部の先輩に手伝ってもらいながら理解しようと努めていました。
この先輩に、当時の次のようにも言われました。乗り越えるために、たくさんの関連する論文を読み、知識をふやさなければいけない。ただし、そのとき必ず守らなければならない作法があるのだ、と。
こうして私は、論文を書くときの引用の方法や、注釈の付け方を教わりました。さらに、引用、注の付け方に厳密であることが論文の美であり、それを疎かにすると剽窃という取り返しのつかない不名誉を被ることになる、とも先輩から念を押されました。他者の論文を剽窃することは、その論文の著者を傷つけるだけでなく、自らを貶めることといってよい、というのです。
論文を書くことをつうじて、何かを「乗り越え」ようとするとき、みなさんはその対象に敬意をもって接して欲しい。そうであればこそ、後日、みなさんの論文も敬意をもって乗り越えられる。こうして、少しずつ学問は進歩してゆくのだと思います。
大学生活をつうじて、みなさんは自らの考えを表現するたくさんの機会に恵まれるでしょう。そのためにも論文を書くことを厭わないで下さい。そして論文を書くための作法も学んでください。その先に豊かな学生生活があるはずです。
- 注
筆者が当時読んだ翻訳書は、マックス ウェーバー 尾高邦雄訳(1980)『職業としての学問』岩波書店。 - 参考文献
高坂正堯(1966)『国際政治 恐怖と希望』中公新書。
マックス・ウェーバー 中山元訳(2009)『職業としての政治 職業としての学問』日経BPクラッシックス。