中山俊宏さんに初めて会ったのは、大学院の博士課程の頃だった。ある勉強会での報告を終えて会場の外に出ると坊主頭にサングラスをかけた中山さんがいた。研究会の主宰者が「入ってくれば良かったのに」と声を掛けると、「いや、遅れてしまったので、挨拶だけでもと思って」とはにかみながら笑っていた。
その後、日本国際問題研究所で中山さんが主宰する勉強会に入れてもらう機会があった。「なんで坊主頭なんですか」と聞くと、「アメリカの軍人と話すときに親近感を持ってもらいやすいんだよね」と笑っていた。
しばらくして再会すると、髪がずいぶん伸びていた。「どういう心境の変化なんですか」と聞くと、「女子大でああいうヘアスタイルはどうも受けないんだよね」と。日本国際問題研究所から津田塾大学へと移籍していた。
アメリカ政治の潮流について語る中山さんの話の深さには何度も舌を巻いた。その源流が、アメリカの共産党について分析した博士論文にあると知ったときは大いに驚いた。ある日本の政府高官と中山さんについて話していたとき「アメリカでの宗教右翼の台頭に一番早く気づいたのが中山さんじゃないかな」と評していた。いろいろな文献に目を通し、その背後に動く潮流を見出す卓越した能力を持っていた。
青山学院高等部から青山学院大学、大学院へと進学し博士号を取得していた中山さんは、津田塾大学から青山学院大学国際政治経済学部に戻り、青山学院を背負って立つ人材として嘱望されていた。しかし、青山学院のネイティブであるがゆえに任される仕事の多さに悩んでもいたようだ。
そんなとき、縁あって慶應に移籍してくれた。あるとき、お酒を飲みながら話してくれた。「実は別の大学に移る話が決まりかけていたんだよね。でも、そっちは断ったんだよ」と。「なぜですか」と聞いたら、「父が慶應出身で、慶應が好きでね。今、病床にいるんだけど、『慶應の教授になるよ』と言ったら、たぶんもうほとんど分からなかったと思うんだけど、とても喜んでくれたんだよ」と。
中山さんは少し強面に見える外見や、テレビでのまっすぐな議論から、怖い人だと思っている人が多かったように思う。しかし、本当の中山さんはとても恥ずかしがり屋で、他者をいつも気遣い、常に自分と他者を客観視し、何が最善かを考える優しい人だった。「中山さん、お願いしますよ」と頼み事をすると、「いやいや、自分はそんなの向いていないから」とやんわり断られた。でも、何度も拝み倒すと最後は引き受けてくれた。
親しい人にアドバイスするときは率直かつ適切だった。「こっちだよ」と理路整然と何度も説得されたものだった。なかなか口には出さないものの、他の人をよく見ている人だった。私とその後の加茂具樹さんが総合政策学部長になる決意を強く支えたのは、実は中山さんだ。私たち3人は本当にたくさんの密談をした。酒を酌み交わしながら長時間話し込んだ。新型コロナウイルスの感染が広がってからは、メールやショートメッセージを無数に交わした。何度も夜にズームで話し合った。相談に乗って欲しいとお願いするといつも時間を取ってくれた。そして、最後はいつも目を細めて笑顔を見せてくれた。
中山さんの訃報は、中山さんが大好きだったワシントンDCで聞いた。中山さんをよく知る日米の人たちと太平洋を挟む安全保障について議論をしていたとき、加茂さんから電話がかかってきた。普段なら会議中の電話は出ない。しかし、前日、中山さんが倒れたという報に接していた。中山さんが意識を回復したという知らせだろうと思い、部屋を出て電話を受けた。膝の力が抜けた。
この日記は予定を繰り上げて帰国するべく、ワシントンDCからロサンゼルスへと飛ぶ飛行機の中で書いている。最初は何もやる気がせず、席に座ってボーッと周りを見ていた。前週、公共交通機関の中でマスクを付けなくても良いという裁判所の判断が出ていた。人々は機内でもマスクをせず、ずーっとおしゃべりをしている。こうした人々を見たら、中山さんは目を細めて苦笑するのだろう。ふとそう思ったら、中山さんのことを書いておきたいという気になった。
少し年上の中山さんは、「自分はそんなタイプじゃないから」と言いながら、SFCを、慶應義塾を、日本を超えて尊敬される私たちの世代のリーダーだった。スイッチが入ってアメリカや日米関係について語る中山さんの話には誰もが耳を傾けた。
日米関係のウェビナーに出た際、知り合いに「元気?」と聞かれた。「元気じゃないよ。大切な友人を失ったんだ」と答えた。「知っているよ! トシのことは残念だ。」本当に多くの人がこの大きな悲しみを共有している。
私の人生の中で中山さんとの時間はかけがえのないものだった。
中山さん、本当にありがとうございました。夢の中でまた相談に乗ってください。