学部の持ち回りで、学部長から入学式の祝辞を依頼されて以来、3月中は他の仕事をしながらも、肩のあたりが何となく重たいような感じで過ごしていた。新入生にとって一生に一度の晴れの日。自分が入学したときの祝辞は正直あまり覚えていないけれど、今は配信もあって、保護者の方々を含め、世界のどこからでも見られるということもあり、おかしなことは言えないぞ、と胃が痛む思いであった。
過去の祝辞を検索すると、故事に基づく示唆に富んだお話、お人柄がにじみ出るユーモアや温かさにあふれたお話など、様々な魅力的な祝辞が目に留まった。しかし教養も人柄も今から身に付けようと思っても時すでに遅い。
自分の子どもが同年代なので、子どもに伝えたいことを伝えればよいのではと思い立ち、原稿を書き始めたものの、見事にお説教になってしまい、これでは入学初日から学生がやる気をなくしてしまうので丸ごと没にした。
周りの方に相談すると、新入生が耳で聞いて理解できる内容にする、自分の学問領域に偏り過ぎてはダメ、身近なエピソードを盛り込んだらよい、などのアドバイスを頂いた。そこで、学生時代の出来事を思い返してみたが、サークル活動やゼミ旅行の思い出、さらには友人たちと大騒ぎしながら徹夜で卒論を仕上げたことなどが次々に思い出されるものの、祝辞に適した内容はなかなか出てこない。
考えた挙句、「人生の師との出会い」「夢中になれることとの出会い」というシンプルなメッセージに絞り、看護実習で苦楽を共にした優秀な友人との出会いを軸にして、どうにか原稿を仕上げた。学部長に見ていただいて、大丈夫と背中を押していただき、少し肩の荷が下りたように思う。
入学式当日は、それまでとは打って変わった穏やかな好天で、日吉駅はスーツ姿の学生とその保護者の方々で溢れていた。早々に開花した桜の花も、日吉キャンパスでは多くがまだ散らずに日光の中で輝いていた。久しぶりに訪れた講堂は大きく立派で、この日にこの場で入学式を迎えられるのはそれだけで幸せなこと、自分はせめてその幸せな気持ちに水を差さないで終えられれば、という心持になった。
式本番は、塾長が、塾の目的の根幹を丁寧に示されると共に、塾が提供している様々な資源をテーマパークのアトラクションに例えて、学生生活を大いに満喫すべしと熱く語られた。それを前列の学生がニコニコしながら聞いているのを見て、自分の出番前に少しリラックスできたように思う。
何とか自分の役割を終え、安堵して帰路に就くと、電車の中で思いがけないメールを受け取った。大学時代の友人が、私の祝辞を聞いたというのだ。彼女のお子さんも今年大学生になることは知っていたが、なんとそのお子さんはその日に日吉に集った新入生の一人であって、彼女は自宅で入学式の配信を見ていたというのだ。
私が祝辞の中で述べた優秀な友人とは彼女のことであった。
そのことを返信しながら、祝辞を盛り上げるために無理に話を盛らなくてよかったと心から安堵した。と同時に、30数年の時を超えて、友人への尊敬の気持ちが思いがけない形で本人に伝わったことを知って、恥ずかしいような照れ臭いような気持ちで車窓を見つめると、桜の木々は既に次の季節への準備を始めていた。
末筆ながら、改めまして、春から新たにSFCにいらっしゃった皆様、おめでとうございます。皆さんもこのキャンパスで、沢山のワクワクと素晴らしい仲間に巡り合えますように。