生成AIを効果的に活用できないと、AI時代に生き残ることはできない。ところが、生成AIを教育の場で使うことの是非について様々な議論がある。
その利用をめぐる議論において、そもそも生成AIの利用を認めるか否かといった議論が散見されるが、そのような議論はもはや無意味ではないだろうか。
コンピュータを用いてワープロソフトで文字を入力して文章を作成することができ、インターネットで様々な情報を調査することができるにもかかわらず、レポート課題の提出条件に、「提出課題の作成はすべて手書き」、かつ、「資料の調査は図書館等に足を運んで資料の原本を確認しなければならない」という条件を課し、その条件を守らなければ成績評価の対象にならないと言っているのに等しい。
生成AIが利用できる環境が出現したからには、教育の場において検討すべきことは、利用禁止やその制限といった議論ではなく、教員と学生双方が生成AIをどのように活用することができるのかを考えることである。生成AIへの質問能力は新たな「国語」能力となり、生成AIを利用したコミュニケーション能力は新たな「語学力」になる。そうなると、入学試験科目も、外国語能力同様に、「AI言語(プロンプト)能力」が受験科目に追加される時代が来るかもしれない。
新たな技術の利用が可能になったのであれば、それを使いこなす方法を学び習うことこそが、教育の場に求められているのではないか。
AI時代における教育において問われるのは、いかに有効に生成AIをはじめとする新たな技術を利用し、教員も学生もそれらの利用によって自らの能力を高めつつ、効率的に指導や学習を行うことであろう。現時点では、そもそもどのように生成AIを利用することが可能なのか手探りの段階であるため、みんな面白おかしく、様々なキーワードや拙い指示文(プロンプト)を入力し、さらには自分の名前を入れてみて、情報が誤っていると嘲笑している状況にあるが、そのうち、生成AIを使いこなすことができない人たちが逆に嘲笑されることになる。
生成AIの利用が広く普及し、文章・テキストや画像、音声などを作成する際にAIを利用することが日常的な風景になったとき、その利用能力、つまり生成AIの活用能力(AIリテラシー)が低いことこそが、今後のAI時代においては致命的なデメリットになると考えられる。
一方、法的・倫理的な課題については、利用者側が自発的に考えることは難しい。にもかかわらず、利用する側の自己責任といった意見も見受けられるが、それは無理な話だ。それを研究し方向性を示すのが私の専門である。その端緒となる考えについて、三田評論の2023年6月号に、「生成AIとAI規制」という論考を掲載したので、そちらをご覧いただきたい。
新保 史生 総合政策学部長補佐/教授 教員プロフィール
*ポートレート写真(トップページ)撮影:写真家 宇壽山貴久子