もうすぐ秋学期がはじまるというのに、いまだに暑さから解放されそうにない。さすがに朝夕は少ししのぎやすくなったが、今年の夏は本当に暑かった。閑散としているキャンパスも、ほどなく賑やかな雰囲気になるはずだ。大学生の夏休みは長い。長い分だけ、いろいろと考える機会が増えるのだろう。たとえば、あらためて進路のことを考える。「卒業プロジェクト」をまとめる段取りも重要だ。インターンや就職活動が現実味をおびてくる。なかには、休学を希望する学生もいる。
この時期になると、学生からいろいろと相談を受ける。迷ったり悩んだりするのは、学生の特権だ。一人ひとりの事情はことなるが、話をしていると、やりたいことがいくつもあって、どれをえらべばよいのか決められずにいる場合が多い。目の前に選択肢がいくつもあるのは、素晴らしいことだ。さまざまな可能性があるのだから、いろいろと試してみればいい。もちろん、現実的に考えることは大事だが、夢に向かって踏み出してみるのがいいと思う。だから、ぼくは常識的なアドバイスをするだけで、あとは本人が決めるよう促すことにしている。なるべく、背中を押す。
だが、たんに「猶予期間」を延ばしたいだけなら、休学はあまり勧められない。休学するなら、「とりあえず」休んでみるのではなく、前向きな理由があればと願う。あれもやりたい、これも可能性がある。大いに欲張りつつも、何に注力するのか、覚悟をもって決めることが大切だ。復学後のことなどあまり考えず、退路を断って向き合う。決めることはえらぶことで、えらぶことは(他の可能性を)手放すということなのだ。
先ほど特権と書いたが、じつは、迷ったり悩んだりするのは学生だけではない。誰でも、幾つになっても、ふと立ち止まるときが訪れるはずだ。数か月前に、『Quitting(邦題:やめる力)』という本を読んだ。啓発書の類いは、何にでも「〜力」をつけがちだ。本を一冊読んだくらいで、何らかの能力が格段に開拓されるわけでもないだろう。そう思って、やや訝しい目で読みはじめたのだが、頭がすっきりと整理されるようだった。著者は、さまざまな分野の人びとに「やめた」経験を丁寧に聞き、そのなかから「やめる」ことの本質に近づこうとする。
いうまでもなく、「やめる」ことは、何かを手放すことだ。事情はいろいろあるが、変化や成長のためには、何かに別れを告げ、何かをえらびとらなければならない。問題は、前向きな気持ちで何かを手放しているはずなのに、その判断に後ろめたさを感じてしまうことにあるという。熟考のうえ「やめる」と決めていても、なぜだか自分を責める。それは、「もう少し諦めずに、がんばって最後までやり通すべきだ」「思うようにいかないのは、自分の努力が足りないからだ」「周りからの期待にこたえなくてはならない」などという想いにつまされて、なかなか「やめる」決断ができないからだ。体裁や面子ばかりを気にして踏み出せないとしたら、それは、変化のきっかけを自らが奪っていることになる。惰性や弛みがある場合も、「やめる」決断はしづらい。無自覚に慣例にならい、現状維持をくり返しているだけでは変化は生まれないだろう。「やめる」ことこそが変化の源泉なのだから、「やめる」ことを失敗だと思わなくていい。同書は、「やめたいときにやめられれば、人生の可能性は広がる」と説く。
人とのかかわりも、そうだ。ぼくたちの毎日は、つねに複雑な関係のなかにある。幾重ものやりとりを続けながら、出会いをよろこび、別れを惜しむ。何かを手放すことはそう簡単ではないし、一時的な不安や戸惑いはつきものだが、「やめる」ためは、つぎへとすすむ覚悟を必要とする。そして、別れは慣れ親しんでいた社会関係を組み替える。
学問も、そうだ。この「おかしら日記」を書きながら、ずっと大学のこと、学究のこと、より具体的にはSFCのことを考えてきた。そもそもSFCは、あたらしい知のありようを模索し、従来のやり方を「やめる」ことからはじまった。古い概念を手放すことで、前にすすんできたはずだ。あらためて、数年前に『三田評論』(2020年10月)に書いた拙文「これまでのSFC、これからのSFC」を読み直してみた。ぼくたちが、ずっと「やめる」ことなく続けていることは何か。それは、なぜか。30数年前にはじめたことのいくつかを、潔く「やめる」ことによって、あたらしい景色に出会えるのではないか。ぼくたちの「やめる力」が試されている。