単なる偶然ではない.私は今年4月,このコラムにおいて春の選抜高校野球大会(甲子園)に出場した塾高野球部を取り上げ,「彼らの流儀,エンジョイ・ベースボールを貫いて甲子園出場果たし,強豪校を相手に互角の戦いを繰り広げた野球部員たちを称えるとともに,森林監督はじめ,塾高野球を支えて来られたすべての方々に敬意と感謝の気持ちを伝えたい」と結んだ.優勝候補と目された仙台育英高校相手に臆することなく戦い,勝負には負けたものの悲壮感はなく,むしろ威風堂々と胸を張る選手たちの姿を見て,このチームは何かやってくれそうな予感がしたのである.森林監督とは個人的にも親交があったので,大会後,ゆっくり歓談する機会いただいた.タイ・ブレイクの戦い方含め,いろいろと課題がわかったので春の経験を夏に生かす,と熱く語ってくれたのだが,生かした結果が「甲子園制覇」なのだから,これ以上の有言実行はない.まさにこのチームにこの監督ありだろう.実際,森林監督のコメントは様々な媒体で賞賛されているが,中でも,ある試合の勝利インタビューで語った「我々は(激戦区)神奈川の代表として戦っている.そう簡単に負けるわけにはいかない」というフレーズに私はグッと来た.地区で熱戦を繰り広げた対戦校の選手たちにも,きっとこの思いは伝わったに違いない.
さて,塾高野球部甲子園優勝とそれにまつわる一連の話題は現行の三田評論(2023年10月)の特集で語り尽くされており,小生の出る幕はないが,幼稚舎から義塾にお世話になり,慶應野球を陰ながら応援して来た一塾員として,今回,あまり語られていない,塾高野球にとって甲子園がまだ遥か遠くにあった時代のことを回顧したいと思う.題して--甲子園出場前夜--. 私は1969年から1987 年までの18年間,慶應義塾に学生として在学したが,当時,"2023年夏,塾高野球部が甲子園を制覇する"という予言は,ノストラダムスを含め誰もできなかったと断言できる.そのくらい塾高野球にとっても,そして塾員にとっても,甲子園は遠い存在であった.事実,1985年秋季六大学野球で大学野球部は26シーズンぶりにリーグ戦を制覇,そして57年ぶりの全勝優勝を遂げたわけだが,この時の早慶戦の出場メンバーに塾高野球部出身者は一人もいない.甲子園どころが,塾高出身者は大学野球部でベンチ入りするのも大変な時代であった.でも,我々は仲間を応援した.普通部野球部時代から強肩で知られた同期の大林修(三井不動産商業マネジメント社長)は塾高で投手に転向,天性のノーコンを努力で克服し,地区予選でノーヒット・ノーランを記録するような逸材だったが,大林を擁しても甲子園はなお,遠いところにあった.
潮目が大きく変わったのは1991年,塾高英語教諭の上田誠先生が監督に就任された時からだろう.「エンジョイ・ベースボール」という理念を塾高野球部に根付かせた方である(同氏の著書,"エンジョイ・ベースボール:慶應義塾高校野球部の挑戦"(NHK出版)は今回の優勝を機に復刻された.なお本書出版の仕掛け人は同期で應援指導部OBの駒井亜里).「エンジョイ・ベースボール」の詳細は三田評論に譲るが,これに加え,当時,塾高校長であった山崎元先生の理解と支援も大きかったと想像する.山崎先生は義塾におけるスポーツ医学の先駆者であると同時に私の師匠でもあり,塾医学部時代は体育会端艇部(当時)に所属,早慶対抗エイトにも出場という稀有な経歴を持ち,校長として,後は常任理事として,慶應スポーツの発展に大きな足跡を残されている.その成果が形となって現れたのは1995年,夏の甲子園に向けた神奈川地区予選である.吉原大介君(パレスホテル社長),佐藤友亮君(元西武ライオンズ)の両投手を擁した塾高野球部は快進撃を続け,ついに甲子園出場をかけて決勝戦を迎えた.対戦相手は強豪,日大藤沢.気持ちが前のめりになった私は山崎先生に質問した.「甲子園が決まったら,選手たちは坊主刈りにするのですか?」.先生は即答した.「そんなこと,するわけない.普段通りだ」.当時の高校野球を取り巻く環境を考えれば,革命的とも言える判断である.続いての質問.「勝った時は塾歌を歌うんですか?」.「当然,塾歌だ」.これも即答.塾高には"慶應義塾高校校歌"なるものがれっきとして存在するが,ほとんどの学生,卒業生は歌えない.そもそも甲子園に流れるのは塾歌以外あり得ないので,校歌として塾歌を登録するつもりとのこと.ちなみに,高野連規定だか放送規定だか忘れたが,テレビ画面に表示されるテロップは"〇〇高校校歌"と決められているので,違和感は分かるがここは我慢しろと諭された.残念ながら決勝では敗れ甲子園出場は叶わなかったが,(私の知る)有史以来,塾高野球部が最も甲子園に近づいた瞬間であった.当時は現在のような推薦入学制度もなかった時代である.甲子園には届かなかったものの,1995年夏の出来事は,塾高野球の黎明期を象徴する戦いであった.
その後もチームは成長を遂げ,2005年春,サウスポーの好投手,中林伸陽君を擁して塾高野球部は45年ぶりに甲子園の土を踏むことになる.人生最初で最後の甲子園のつもりで(実際は違った)私は球場に足を運んだ.関西高校相手に劇的なサヨナラ勝ちを収め,降りしきる雨の中で声高らかに歌った塾歌であるが,この時,塾歌を歌って初めて涙した.そして1995年の夏から28年後,エンジョイ・ベースボールは大輪を咲かせ,ついに大会最後の校歌として我々は塾歌を聞くことになる.お盆休みも明けた平日のまっ昼間に,立派な大人がどうしてこんなに甲子園に集まれるのか?と揶揄する声もあったと聞くが,そういう学校なのだから仕方ない.私は残念ながら画面越しの観戦となったが,気分は最高である.目を閉じないで見ている夢のようで,いつまでも見続けていたいと思った.