文字の精霊が夜な夜な図書館でひそひそ話をしている。古代アッシリアの都ニネヴェの宮廷で、そのような噂が広がる。図書館といっても、粘土板に楔形文字を刻んでいた時代のものである。アッシュルバニパル王に命ぜられて、ある老博士が件の精霊について研究を始める。文字が普及してからというもの、人々の頭は働かなくなった。我が国は文字霊にむしばまれている。文字へのむやみな崇拝を改めなければ、やがて後悔することになるだろう。このように老博士は報告するが、一級の文化人たる王の不興を買う。自宅謹慎中、大地震がニネヴェ周辺を襲い、書庫にいた老博士は、文字霊の呪いの声が響く中、数百枚の粘土板に押しつぶされてしまう(中島敦「文字禍」)。
粘土板となれば、パピルスなどよりも火災への耐性は強いはずだが、その塊が上から降ってきたら、大方の人間はひとたまりもないだろう。とはいえ、紙の本であれば安全であるわけでもない。ハードカバー製のものは、手から滑って足の甲に落ちたりすると、1冊でもなかなか痛い。簡易な文庫や新書であっても、数が増えれば、それなりの重さになる。用心するに越したことはない。
2011年の東日本大震災の際、慶應義塾大学の各メディアセンターでは、幸いにも負傷者こそ出なかったが、資料や施設、システムの面での被害は小さくなかった。資料の被害は、とりわけ湘南藤沢メディアセンターで酷かったという。それなりの地震対策がすでに進められていたにもかかわらず、2階・3階の書架からは大量の資料(一説では約20万冊とも言われる)が落下した。他キャンパスのスタッフの応援が加わっても、資料をすべて元通りの位置に戻せたのは3月31日であり、それまでは休館を余儀なくされた。同じくSFC内の看護医療学図書室でも、全体の約半数の資料が棚から落ちた1。湘南藤沢メディアセンター(「Μ館」)での資料落下の様子については、写真が残っている2。
湘南藤沢メディアセンターでは現在、書架によっては落下防止バーが設置されている。看護医療学図書室でも同様である。一定の大きさの揺れを感知すると、そのバーが自動で作動して、資料が落ちるのを防ぐ。バーのほかにも、いくつか防止対策が施されている。けれども、震度によっては、図書などが落下することを完全に防ぐのは難しい。揺れを感じたら、あえてアッシリアの老博士を演じる必要はない。すぐに書架から離れるのが基本である3。
また、館内にいるのがSFCの学生・教職員・研究員であるとは限らない。湘南藤沢メディアセンターでは、1991年秋から藤沢市図書館との相互協力を続けている。所定の条件の下、藤沢市内に在住・在勤の方々に、蔵書の貸出に加え、来館利用もしていただいている(逆に、SFC所属者による藤沢市図書館の利用も可)。このような形での地域連携を行っているメディアセンターは、慶應義塾大学内では湘南藤沢地区のものだけである。近隣地域からの年間入館者数は少なくなく、この点を含めた防災・減災の対策にも目を向けることが欠かせない。
公共図書館には、その性質上、防災や災害復興に向けた地域拠点としての役割を期待する声も聞かれる。大学図書館である湘南藤沢メディアセンターには、また別の役割もありうるだろう。幸いなことに、SFCにはさまざまな研究を行っている教員・学生が集まっている。館内の安全一つを取っても、湘南藤沢メディアセンターの内部関係者だけでは気付かない事柄が、多数の視点から見れば浮かび上がってくるにちがいない。SFCの特色を積極的に活かしながら、研究・教育の場での地震に対する備えをさらに進めていきたい。
1 関秀行「東日本大震災に伴うメディアセンターの被害状況および講じた対策について」『MediaNet』18(2011)、pp.58-59(次のURLのウェブページからダウンロード可https://www2.lib.keio.ac.jp/publication/medianet/article/toc/018.html2025年3月11日アクセス)。 慶應義塾図書館史Ⅱ編集委員会編(2023)『慶應義塾図書館史Ⅱ』慶應義塾大学メディアセンター、pp.172-173、p.288(慶應義塾大学出版学術情報リポジトリKOARAからダウンロード可:https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO12004003-00000002-00012025年3月11日アクセス)。
2 湘南藤沢メディアセンターX(@sfc_mediacenter)、2023年3月10日午後3時15分、(2025年3月11日アクセス)。キャンパス写真展「写真で振り返る湘南藤沢キャンパスの30年」・資料展「SFCコレクション」(「2010-2019」)(2025年3月11日アクセス)。
3 湘南藤沢メディアセンターX(@sfc_mediacenter)、2023年5月27日午後1時3分、(2025年3月11日アクセス)。